Up 給与地は,和人に賃貸 作成: 2017-02-13
更新: 2017-02-13


      喜多章明「旧土人保護法とともに五十年」
    『コタンの痕跡──アイヌ人権史の一断面』, 1971, pp.367-436.
    p.369,370
    道庁は明治二十四年比の地に農事授産場を設け、旧土人に対し農耕授産の技術指導を行ない、明治三十二年保護法制定に伴い給与地として各戸に五町歩宛無償下付したものであるが、交通機関のない当時のことであり、指導も徹底を期し得なかったであろうし、元来狩猟遊牧の民である同族を、農耕の民に転向せしむることは、そう簡単に行なわれることでなかった
    ましてや本道は松前藩政時代五百年、不毛の地として穀物類の生産は不能とされていた土地柄である。
    そのような関係で給与地はおおむね和人通称 (しゃも) に賃貸し、或は賃貸することを目当として、何年分かを前借して、生活の糧を求めるといった実情であった
     一方賃借した和人は、これに利鞘を取って他に転貸し、一躍巨万の富を摑み、白()の殿堂に居住するに反し、地主の立場にある土人は見苦しい草小屋に住み、賃借和人の日雇になり、あるいは、春ともなれば山菜背負って市井の巷を売り歩くという奇態な現象を露呈していた。
    元来旧土人は狩猟民族であり、六千六百方里の蝦夷地に於て河海に漁り、山野に鳥獣を追って生活して来たものである。
    春に種を播き、秋になって収穫するといった気の長い生業には適当しない

    しかも明治初期当時迄本道には米作農業は行なわれていない。
    本州のように米作農業であれば生産した米穀は、自家の食糧に供し命の糧にも充たし得ようが、生産物が雑穀であるからこれを販売して現金に換価しそれによって米噌、衣料等を購入しなければならない、いわゆる計画性農業である。
    言語、風俗、習慣を異にしている民族、松前五百年の非同化政策の目隠しを取り外されたばかりの民族に、農業によって直ちに生活の途を樹てよということは無理であった
    開拓使としてはとりあえず応急の措置として同族が住居すべき基盤として土地を与え、()菜その他の食料品を耕作せしめ、追々同化向上に随って各自適する方向に向って生活の方途を樹てしめんとする意図であった。