Up 作成: 2017-02-13
更新: 2017-02-13


      玉井浅市/北海道アイヌ協会幕別支部「私等の部落」
    『蝦夷の光』第3号, 1931. pp.16,17.
    『アイヌ史──アイヌ協会・ウタリ協会活動史編』, 1994. pp.140,141..
    p.16 (p.140)
     十数年以前の私等の部落は如何でありましたでせうか。惨めな生活状態でありました。 一家の柱石たる主人は恐るべき大敵、酒の為に己の精神を奪はれ、僅かの酒に浸り、その日その日を追はるる儘に生活してゐました。
     酒代が欠乏すると. 夕闇おりてから川へ漁に出掛け、早朝帰宅しては獲物を酒代に変へて飲むと云ふ仕末、そうして四五人も集って飲んだ揚句一寸した口上に目を光らして喧嘩を始め,仲直りとて又飲むと云ふ有様 従って給与地は他に貸付し代金は勿論酒と変り 妻子がどうであらうと顧みようともしませんでした。 妻女は日雇をし僅かな賃金を儲け細々乍らその日を送ると云ふ哀れな生活を続けました。
     主人は他家で飲んで帰宅しては妻女を一夜中観るも忍びない虐待をすると云ふ事は 珍しい事ではありませんでした。 その様な有様なので冷笑の眼を向ける和人達は尚更一層卑下し,ましてや指導してくれる筈はなし、実に十数年以前の事は筆や口では言ひ表しがたい程の状態であったのであります。

      砂沢クラ,『ク スクップ オルシペ 私の一代の話』, 北海道新聞社, 1983
    pp.185-187.
     江部乙で米を作るようになってから、夫は酒を飲み出しました。 酒は江部乙の店屋が「米が売れたら払ってくれればいい」と言って置いてゆくのです。 伏古で畑を作っていたころにはなかったことでした。
     ‥‥‥
    冷害が起きる少し前のことです。 私は夫に重い鉄のフライパンでなぐられロクマクになりました。 私がころんだところにかかってきたので、頭をかばおうと右手をあげたら、右のろっ骨の上をしたたかに打ったのです。
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     冷害、水害と借金払いに追われる年が続いたうえ、夫は酒を飲んで暴れる、猟もない、私もロクマクになるで、もう、これ以上、私ひとりで米を作り続ける気力も体力もなくなっていました。
     ‥‥‥
     この時、離婚をあきらめたのがほんとうによかったのか、といまになっても考えます。 妻の私が「がまんと許せだ」と思って耐えても、ああいう父親では、子供たちがかわいそうだった、と思うのです。
     長男の清は、勉強がよく出来て、成績もよいうえ、くに野球はうまくて、投げても打っても走っても、運動をさせてもなんでも上手でした。 だれにも負けませんでした。
     私は、清を上の学校へやり、学問をさせたかったのですが、夫は「アイヌに学問はいらない。稼がせる」と言い張り、高等科の一年の時から旭川の松井梅太郎さんのところへクマ彫りの修業に出したのです。
     野球がうまいのを見込まれて、鉄道からも、毎日のように就職をすすめに来ました。 「保線の仕事をしながら野球をしたらよい」という話だったのですが、夫は「ダメだ」と言って、清を猟へ連れて行ったり、危険な造材現場で働かせたのです。
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     「体が治ったら帰ってこよう」と、私たち一家は、当座に必要な身の回りの品だけ持ち、家も水田もそのままに江部乙を出て、旭川・近文の私の母の家に行きました。 昭和七年の冬のことでした。
     夫は、旭川では江部乙から連れてきた馬を使って馬追いの仕事をするはずだったのですが、親せきが訪ねてくると昼間から酒を飲み、たまに働きに出ても、すぐに帰ってきて、飲み仲間と酒を飲み始めるのです。 来たばかりのころは夫も客もおとなしく飲んでいたのですが、そのうち酔うと必ずケンカが始まるようになりました。 何人もの男たちが大声で怒鳴り合ったり、なぐり合ったり。 やっと客が帰ると、今度は、私に乱暴するのです。
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     旭川に帰ると、夫は、また飲み仲間と毎晩のように酒を飲みだしました。 酔うとケンカになり、あまりひどいときは、子供たちを親せきの家に逃がしました。
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     夫は川村の兄 (カ子トアイヌ) の家などよその家で飲むと、いつも私の名前を大声で叫びながら帰ってくるのです。 私の名はクラですが、父のクウカルクがクマに殺されて死んだあと、母が「クラと言うと夫を思い出す」と言って、キヨと名前を変えていました。
     夜中でも、あたりかまわず、夫が「キヨー、キヨー」と叫びながら帰ってくるので、部落の人は「まるで金魚売りだ」と、夫に「キンギョ」とあだ名をつけ、酒の席などで金魚売りのまねをして夫をからかいました。 夫は、妻の私にはわがまま勝手をしましたが、心根はまっすぐな人でした。 こういう人でしたから、近文の人たちからよそ者扱いされたり、いじの悪い仕打ちを受けると腹が立つこともあった、と思います。
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     タラオマツプでの落ち着いた暮らしは六、七カ月で終わり、旭川の母の家で、酒を飲んでは暴れる暮らしが始まりました。 夫の飲み仲間は、「あそこへ行けば飲める」と、それだけで集まってくるのに、夫は人が寄るのがうれしく、いくらでも飲ませるのです。
     毎晩、毎晩、酒盛り続き、ほんとうに、私の家は酒場のようでした。 取っ組み合いのケンカはしょっちゅうで、夫は耳がとれるほどのケガをしたり、玄関の戸を壊したり。 心の安まる時はありませんでした。
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     添牛肉では猟は出来ませんでしたが、夫は、カムイコタンの山でムジナ二匹を生け捕りにし、大金が入りました。 せっかく苦労してかせいだ金なのに、夫は、つぎつぎと金を借りに来る親せきに気前よく貸してやったり、酒盛りに使って、たちまち使い果たしてしまったのです。
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     登別では、あまり酒を飲んで暴れなかった夫が、定山渓に来てからは毎晩のように酒を飲んでケンカをするようになりました。 政代はいやがって札幌の婚約者のところへ行ってしまい、私は「どうか、ケンカしないで」と祈るしかありませんでした。
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     つききりで、夜も寝ないで看病したのですが、政代の病気は悪くなるばかりでした。 もう、札幌で入院させていても仕方がないと旭川に連れて帰りましたら、ひどくやせ、骨ばかりになって死にました。 昭和十五年の七月でした。
     政代は生まれつき、心臓が悪く、体が弱かったのです。 それなのに、小さい時から、私の夫が酒を飲んで怒鳴ったり、暴れたり。 夜も安眠出来ず、夏はヨシ原で寝たり、冬は親せきの家にフトンを背負って逃げたり、ほんとうにかわいそうでした。
     勉強もよく出来たのですが、体が弱いので、高等科にもやらずに和裁と洋裁を習わせただけで、親が決めた婚約者と一緒にさせました。 まじめないい子でしたから、体が弱いのに一生懸命働いて、流産した、と思います。
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     旭川に戻ると、夫の弟の亀之助が建てた家が空いていたので、そこを借りて息子夫婦と一緒に暮らしました。 夫は、息子が一生懸命働いて金を持ってくるのをいいことに、また、酒ばかり飲んで働きません。
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     夜になって、夫は、酒を飲み出し、持ってきた四合ビンの酒を一人で飲んでしまいました。 そして、もう寝ていた私に「酒が足りない。買いに行け」と言うのです。 町までは二里 (約八キロ) 以上あり、夜中に大雪の中を買いに行けるはずもなく「なにを言うの」と言うと,私の夜具をけとばし、私をなぐったり、けったりし始めました。
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     男たちは、昼間はクマ彫りを手伝うのですが、夜になると毎晩そろって出かけ、ツケで酒を飲んできます。 店で売っている菓子を手当たり次第食べる、何日もはかないクツをドブに投げるなど、目にあまることばかりするのですが、「帰れ」とも一言えません。
     あとになって、あちこちの店から請求書が来ましたが、とても払えるような額ではないのです。 驚いて、店と話し合って少しはまけてもらいましたが、知らないうちに負った大借金を返すのに、何年もひどい苦労をしました。
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     冷害や水害続きで借金の下敷きになり、体をこわして家も水田もそのままにして江部乙を出たのが昭和七年,いったんは私の故郷の旭川に落ち着きましたが、夫が酒を飲んでは暴れるのでおられず、よその土地に行くと、初めはよくても後になると必ず悪いことが起きて旭川に戻らなくてはならなくなるのです。
     「橋の下でもいい。安眠出来るところを」と思って、道内を転々と歩き回り、安住の地、芦別の川岸に落ち着いたのは昭和三十一年のことでした。