"アイヌ民族" イデオロギーは,知里幸惠の『アイヌ神謡集』「序」を,好んで引用する:
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その昔この広い北海道は,私たちの先祖の自由の天地でありました.天真爛漫な稚児の様に,美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は,真に自然の寵児,なんという幸福な人だちであったでしょう.
冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って,天地を凍らす寒気を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り,夏の海には涼風泳ぐみどりの波,白い鴎の歌を友に木の葉の様な小舟を浮べてひねもす魚を漁り,花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて,永久に囀ずる小鳥と共に歌い暮して蕗とり蓬摘み,紅葉の秋は野分に穂揃うすすきをわけて,宵まで鮭とる篝も消え,谷間に友呼ぶ鹿の音を外に,円かな月に夢を結ぶ.嗚呼なんという楽しい生活でしょう.平和の境,それも今は昔,夢は破れて幾十年,この地は急速な変転をなし,山野は村に,村は町にと次第々々に開けてゆく.
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ここで知里幸惠は,現前のアイヌ系統者を「私たち」にしている。
そして,「和人と遭う前の北海道人」を,「先祖」にしている。
しかし,「アイヌ系統者」は,「和人と遭う前の北海道人」を先祖にもたない者も存在することになる。
実際,外地から北海道に移住しアイヌ文化に同化した者は,その時点で, 「和人と遭う前の北海道人」を先祖にもたない者である。
和人部落がそっくりアイヌ文化に同化した場合,この部落の者たちは,その時点で, 「和人と遭う前の北海道人」を先祖にもたない者である。
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山本多助 (1948), p.32.
わが一族の古老たちによると、われらの先祖は青森から船出して網走に上陸、その後クシリ (釧路) に定住したのだという。
私としては、はなはだ気にくわぬことではあるが、いたしかたのない事実である。
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松浦武四郎 (1870), p.136
軽舟已過萬重山等口吟てポロサル〔幌去〕に宿。
此村、昔し十勝より来りし者と、津軽の字鐵より来りし者の子孫なりと。
今に乙名また外の家等にも持来りしと云種々の寶物有と。
此地惣ての元地にて、爰の言は何處にても通ざる處なしと。
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そして──ここが核心だが──「和人と遭う前の北海道人」は,そもそもアイヌではない。
なぜなら,アイヌとは「アイヌの生活」をしている者──すなわち,「アイヌ文化」を生きている者──のことであり,そしてアイヌ文化は「和人との関接」が要素になっているからである。
例えば,アイヌが使う鉄器 (マキリ, 鍼, 鍋など)。
それは,和人から入ってくるものである。
まとめ:
- 「和人と遭う前の北海道人」は,アイヌではない。
- アイヌ系統者 (アイヌを含む) は,「和人と遭う前の北海道人」を先祖にもたない者も存在する。
これは, 「アイヌの系統」は,「アイヌ」から先祖溯行する方向へは拡張できないということである。
「アイヌの系統」は,「アイヌ」から子孫に降る形でしか考えられない。
そこで,つぎの定義となったわけである:
先祖のなかにアイヌ──ここで「アイヌ」の意味は, 「アイヌの生活をした者」──が少なくとも1人いる者を,アイヌ系統者と呼ぶ。
引用文献
- 知里幸恵 (1923) :『アイヌ神謡集』
- 山本多助 (1948) :「釧路アイヌの系図と伝説」
- チカップ美恵子編著『森と大地の言い伝え』, pp.21-84
- 松浦武四郎 (1870) :『東蝦夷日誌』
- 吉田常吉[編]『蝦夷日誌 上 東蝦夷日誌』, 時事通信社, 1984.
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