農耕生活圏は,狩猟採集生活圏の中に進出する。
進出は,つぎの形をとって実現されていく:
この「進出」は,「侵攻」と同じではない。
文化の異なる二つの生活圏の隣接は,各々の生活のダイナミクスによって,結果として一方による他方への「侵攻」になるということである。
註: |
例えば防衛は,防衛にとどめておけるものではなく,打って出ることになる (「攻撃は最大の防御」になってしまう)。
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『続日本紀』「巻第七」, 1, p,183
[靈龜二 (716) 年九月]
乙未 (二十三日)。
従三位で中納言の巨勢朝臣萬呂は〔つぎのように〕言上した。
出羽国を建ててすでに数年を経たにもかかわらず,官人や人民が少なく、狄徒 (えみし) もまだ〔朝廷の統治に〕なついていない状態でありますが、その土地はよく肥え、田野も広大で余裕があります。
どうか、近くの国の民を出羽国に移り住まわせて、狂暴な狄 (えみし) を教えさとし、あわせて土地の収益を維持できるようにしたいと要望します。
これを許した。
それで陸奥国の置賜・最上の二部と、信濃・上野・越前・越後の四国の人民を、百戸ずつ出羽国に付属させた。
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『続日本紀』「巻第九」, 1, pp.247-249
[養老六 (722) 年四月]
乙丑 (二十五日)。
太政官は〔つぎのように天皇に〕奏した。
このごろ、辺境の郡に住んでいる人民たちは、にわかに外敵〔の侵略〕をうけ、そのためついに西や東に逃げまどい、流浪し分散しています。
もし今〔彼らに〕あわれみと恵みを加えなければ、恐らく後に悪影響をのこすことでしょう。
それゆえに聖王が制度をたてるについて、辺境〔の人民の生活〕を充実させることにも努めるのは、思うにこの中国 (蛮夷の国に対する中華の国。ここでは日本をさす) を安んずるためでありましょう。
〔そこで〕つぎのように請願します。
陸奥按察使が管轄する地域内の人民の庸・調をますます免除して、〔百姓に〕農耕と養蚕をわりあてて勧め行なわせ、弓を射る術と乗馬を教習し、さらに辺境を援助する財源を税として取り、〔これを〕蝦夷に賜う禄にあてさせたいと思います。
その税は、〔按察使管内の〕兵卒一人につき長さ一丈三尺、幅一尺八寸の麻布を出させることにし、三人分〔の布〕で一反とします。
〔つぎに〕陸奥の国出身の授刀寮の兵衛・衛士、及び位子・帳内・資人、ならびに防閤・仕丁、采女・仕女 (諸国から中央に徴集され、裁縫・洗濯・炊事など宮中の雑役に使役される女性) など、この類の人びとは全員帰国させて、もとの地位にもどすことにします。
もし〔彼らのなかに〕考 (官吏としての勤務評定をうける資格) を得ている者がいるならば、六年間〔の評定〕によって位を授けることにし、一度位を授けたならそれ以後は外考 (地方官としての勤務評定で、八〜十年ごとに叙位される) とします。
そして他の土地の人びとが〔陸奥国に来て〕、何年も居住しているならば、従来の例に従って税を徴収する、現在、移住して来て土地を占めた場合は、一年間税を免除し、以後は従来の例によ〔り徴税す〕る、というようにしたいと思います。
また、食物は人民にとって最も大切なものであります。
〔それ故、食物を確保するために〕時宜にかなった方策をうち出すことは、国を治めるための重要な政策です。
〔そこで〕つぎのように請願します。
農業を奨励して穀を蓄積し、それによって水害や旱魃に備えますが、ついては所司に委任して人夫を徴発し、肥沃な土地の良田百万町を開墾したいと思います。
そして〔人夫の〕労役は十日を限度とし、食料を支給し、使用する道具類は官物を借し与えることにし、秋の収穫ののちすぐさま〔それらの道具類を農民たちに〕造らせ準備させます。
もし、国司や郡司のなかで、詐って〔この仕事を〕遅らせ、肯て開墾しない者があれば、〔国司・郡司は〕両方ともすぐさま解任することにします。
〔また彼らは〕恩赦に会ったとしても詳す範囲には入れません。
もし、国内の百姓のなかで、荒野や未耕地によく労力を加えて〔開墾し〕、雑穀を三千石以上収穫したときには、勲六等を賜い、一千石以上のときには、終身租税負担を免除したいと思います。
現に八位以上の位階をもっておれば、勲位一段階を加えることにします。
〔しかし〕褒美の賞をもらってのち、仕事を怠って〔開墾地の〕耕作を停止したならば、位記 (位階授与の証書) を返還させ、もとの地位にもどします。
また、公私の出挙 (稲や銭などの利息付き貸付け) の利率は三割にしたいと思います。
また、兵士を用いるのに肝心なのは衣と食を根本とすることだと言います。
鎮所に食料のたくわえがなければ、どうして固く守ることができるでしょうか。
〔そこで〕人民に募って穀を出させて、鎮所に運輸させ、その道程の遠近をはかつて〔遠・中・近の〕等差を定めることにします。
そして積み運んだ量が〔鎮所より〕遠ければ二千斛、次に遠ければ三千斛、近ければ四千斛で、それぞれ出した者に、外従五位下の位を授けたいと思います。
〔天皇は太政官の〕奏を許した。
六位以下、八位以上〔の位階の授与〕については、〔鎮所までの〕道程の遠近や運輸する穀物量の多少に随って等差があった。
〔これについては〕格の中につぶさに語られている。
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『続日本紀』「巻第九」, 1, p.258
[養老七 (723) 年八月]
己夘 (十七日)。
出羽国司・正六位上の多治比真人家主は〔つぎのように〕言上した。
蝦夷らすべて五十二人は〔征討に際しての〕功績がすでに顕著ですが、いまだに褒賞の恩恵にあずかつておらず、〔彼らは〕くびを長くして天恩が下されることを長らくの間切望しています。
謹んで思いますのに、よい餌を付けて釣れば必ず深い淵にいる魚も捕えることができ、俸禄を重くすれば必ず忠節を尽くす家来があらわれる〔といいます〕。
今、この愚かな夷狄も、やっと君命のままに奔走するようになりましたが、久しく〔彼らを〕いたわりなぐさめなければ、再び〔君命に従わず〕散り散りになることでしょう。
そこで〔蝦夷らの褒賞の件について〕この書状につぶさに述べて裁定を得たいと思います。
〔天皇は〕勅して、その功績に応じてそれぞれ褒美と位を与えた。
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『続日本紀』「巻第十」, 1, pp.311,312
[天平二 (730) 年正月]
辛亥 (二十六日)。
陸奥国が〔つぎのように〕言上した。
「管轄下にある田夷村の蝦夷らは、久しい以前から反逆心をすてて、すでに教導に従っています。
〔そこで〕田夷村に郡役所をつくり〔新郡をたてて〕、〔蝦夷を〕百姓 (公民) にしたいと思います」と。
これを許可した
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『続日本紀』「巻第十二」, 2, pp.45-48
[天平九 (737) 年四月]
戊午 (十四日)
陸奥国に派遣された持節〔征夷〕大使で従三位の藤原朝臣麻呂らが〔つぎのように〕言上した。
去る二月十九日に陸奥国多賀に到着し、鎮守〔府〕将軍で従四位上の大野朝臣東人と協議し、また、常陸・上総・下総・武蔵・上野・下野等六ヵ国の騎兵、総計千人を召して、海ぞいと山中の両道を開かせましたので、夷狄たちはことごとく疑いと畏怖の念を懐いております。
そこで、農耕に従事している蝦夷で遠田郡の郡領・外従七位上の遠田君雄人を海ぞいの道より、帰服した蝦夷の和我君計安塁を山間の道よりそれぞれ派遣し、遣使の趣旨を告げてなだめ諭し、これを鎮撫しました。
そして勇敢で強健な者百九十六人を選んで将軍の東人に委ね、四百五十九人を玉造などの五つの柵に分属させました。
麻呂らは残りの三百四十五人を率いて多賀柵を守備し、副使・従五位上の坂本朝臣宇頭麻佐は玉造柵 (古川市東大崎名生館遺跡か) を守り、判官・正六位上の大伴宿禰美濃麻呂は新田柵 (宮城県遠田郡田尻町八幡付近か) を、〔陸奥〕国の大掾・正七位下の日下部宿禰大麻呂は牡鹿柵 (宮城県桃生郡矢本町赤井星場遺跡か) を守備し、その他の柵は従来どおり鎮守いたしておりました。
〔二月〕二十五日に将箪東人が多賀柵より〔賊地に向けて〕進発しました。
四月一日、〔将軍東人は、征夷〕使の配下の判官・従七位上の紀朝臣武良士らと〔東人に〕委ねられた騎兵百九十六人、鎮〔守府〕の兵四百九十九人、陸奥国の兵五千人、帰服した夷狄二百四十九人を率いて、管内の色麻柵 (宮城県加美郡中新田町城生遺跡か) を発し、その日のうちに出羽国大室駅 (山形県尾花沢市) に到達いたしました。
〔一方〕出羽の国守で正六位下の田辺史難波は、管内の兵五百人と帰服した夷狄百四十人を率い、この〔大室〕駅に滞在し待機すること三日で、将軍東人〔の軍勢〕と合流して賊地に入り、道を開拓しながら行軍しました。
ただ賊地は雪が深く秣は確保しにくく、そのため、雪が消え草が生えるのをまって、また改めて軍を遣わすことにしました。
同月十一日、将軍東人が引き返して多賀柵に帰還しました。
〔東人〕自らが指導して新たに開通させた道は全長百六十里、〔その間〕あるいは石を砕いたり樹を保ったり、あるいは渓を埋め峯をこえて通しました。
賀美郡から出羽国最上郡玉野 (尾花沢市の地であろう) に至る八十里は、全て山野で、地形は険しいとはいえ、人馬の往復に大きな艱難はありません。
玉野から賊地の比羅保許山に至る八十里は、地形は平坦で危うく険しい個所は存在いたしません。
〔その先は未踏査ですが、帰順した〕夷狄らは、
「 |
比羅保許山から雄勝村に至る五十里余りは、その間は平坦です。ただ二つの河があって、増水するたびに両方とも船を用いて渡らなければなりません」
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といっております。
四月四日〔将軍東人らの〕軍勢は賊地内の比羅保許山に駐屯しましたが、これより先、田辺〔史〕難波の書状がきて、
「 |
雄勝村のさきで服従した蝦夷の長ら三人が投降し、拝伏して、
『 |
官軍が我々の村に入ろうとされていると承ります。〔そのような事態になれば〕不安をおさえきれませんので、降伏しようとやって参りました』
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といっております」
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と伝えてきました。
〔しかし〕東人は、
「 |
投降の夷狄にはたいそう悪だくみが多く、その言葉も変ることがある。安易に信ずることができない。重ねて帰順したいというならば、その時点で合議しよう」
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といいました。
〔それに対して〕難波は建議して、
「 |
軍勢を進めて賊地に入るということは、夷狄を教え諭し、城柵を築いて民を〔移して〕住まわせるためです。何も兵を苦しめ、帰順する者を傷つけ殺そうというのではありません。もし投降の請願を許さず、無視し圧迫して直ちに進攻したなれば、帰順した夷狄たちは恐れ怨んで山野に遁走するでしょう。
〔それでは〕労多くして功少ないこととなり、おそらく上策とはいえません。
〔いまは〕官軍の威勢を示しておいて、この地から引き揚げるにしくはないでしょう。
そのあとでこの難波が帰順の幸せを諭し、寛大なめぐみで懐けてみせましょう。
そうすれば則ち、城郭は守備しやすく、人民は永く安らかになるでしょう」
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といったので、東人はそのとおりであると考えました。
また東人の本来の計略では、早期に賊地に入り、耕作して穀物を貯え、兵糧を搬送する費用を省くことにありました。
しかし今春は例年に倍する大雪が降り、これによって、早期に入って耕作することができなくなりました。
天の与えた条件がこのようなので、すでに本来の意向とは違ってきています。
一体、城郭を造営することぐらいはすぐにもできます。
しかし城を守るのは人間であり、人間の生存は食糧によります。
耕作の時候を失えば、何を〔食糧として兵士に〕給することができましょうか。
さらに兵士というものは、利益をみて行動し、利益がなければ動きません。
それ故に、軍勢を引き揚げて帰り、今後をまって始めて城郭を造営することにします。
ただし東人は、自ら賊地に進攻するため、将軍として多賀柵を守備する許可を請うています。
〔しかし〕いま新道は既に開通し、地形を直接に視察しましたので、後年になって、東人が自ら攻め入ることはしなくても、事は成就させることができます。
臣下たる麻呂らは愚かで事情に明るくはありませんが、東人は久しく将軍として辺要の地におり、作戦が的中しなかった例はほとんどありません。
のみならず、自ら賊軍の地に臨み、その形勢を熟知し、深慮遠謀の上で、このような〔作戦を〕企てました。
〔そこで〕謹んで事の次第を記し、天皇の裁決をおうかがいします。
ただこのごろは〔情勢も〕平穏で、農作業の時節にも当たっておりますので、徴発している兵士は一旦解放し、その一方で〔以上のような〕奏上をいたすところです。
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『日本三代実録』「卷第卅三 起元慶二 (878) 年正月尽元慶二年六月」
[三月] (
pp.483,484
廿九日乙丑晦。
出羽国守正五位下藤原朝臣興世飛駅上奏。夷俘叛乱、今月十五日焼損秋田城并郡院屋舎城辺民家。仍旦以鎮兵防守、旦徴発諸郡軍。
勅符曰。彼国今月十七日奏状、既知、夷虜悖逆、攻焼城邑。犬羊狂心、暴悪為性。不加追討、何有懲乂。事須量発精兵、扼其咽喉。
但時在農要、人事耕種。若多動衆、恐妨民務。
夫上兵伐謀、両将不戦。巧設方略、以安辺民。亦別有勅符、下陸奥国。若当国之兵力不足制者、早告陸奥、令其赴救。凡蛮貊之心、候時而動。
雖云醜類之可責、抑亦国宰之不良。宜施慰撫之化、以遏風塵之乱。
又勅符陸奥国司曰。得出羽国今月十七日奏状偁。逆賊悖乱、攻焼城邑。両国接境、非常難知。若無予戒、何備不虞。宜加警粛以鎮国内。亦若出羽国来請援兵、随発精勇、応時赴救。兵貴神速、罪深逗留。待其告急、莫失事機。
‥‥
[四月]
pp.484,485
四日癸巳。
広湍竜田祭如常。
▼是日。出羽国守正五位下藤原朝臣興世飛駅奏言。秋田軍城邑官舎民家、為凶賊所焼亡之状、去月十七日上奏。厥後差権掾正六位上小野朝臣春泉、文室真人有房等、授以精兵、入城合戦、戎党日加、彼衆我寡。城北郡南公私舎宅、皆悉焼残。殺虜人物、不化勝計。此国器仗、多在彼城。挙城焼尽、一無所収。加之去年不登、百姓飢弊。差発軍士、曾無勇敢。望請隣国援兵、勠力襲伐。勅符曰。重得奏状、具知賊勢転盛、疽食浸淫、非常之事、変態難量。能加望遏、莫令滋蔓。去月廿九日、勅符下彼国訖。計也応到。亦同日勅符、下陸奥国、令其赴救。今重勅陸奥国、発兵二千。宜首尾合戦及早禽獲。務尽上策、定我下土。又下勅符於陸奥国曰。重得出羽国奏状稱。賊勢転盛、衆寡不敵。非有救兵、難加独制者。事既非常、或恐生変。宜発精勇二千、星火馳救。禽敵有期、失機遺悔。兵家所謂疾雷不及掩耳也。若致遅留、処以重科。亦其所発之士、各備路粮。仍須差国司掾目各一人、押領其事。
‥‥
p.486
廿八日癸巳。
出羽国守正五位下藤原朝臣興世飛駅奏言。賊徒弥熾、不能討平。旦差六百人兵、守彼隘口野代衛。比至焼山、有賊一千余人。逸脱帰者五百余人。城下村邑、百姓廬舎為賊所焼損者多。
▼即日勅符曰。重得奏状、具知凶類滋蔓、殺略良民。発兵以来、望有成効。而今官軍致敗、賊徒作気。用兵之道、豈若此乎。今勅上野下野等国、各発一千兵。亦重勅陸奥国、責以緩救。宜合三国兵、一時擒滅。凡軍陣之法、必有注記。諸事大小、皆在目前。察其所縁、為図成敗。今所上奏状、極為省略。胡城雲隔、魏闕天遥。路遠事疑、非可指問。必須事無巨細、委曲記録、令可知見。老弱在行、耕種廃務。早休染鍔之労、当崇□弓之化。』勅符陸奥国曰。得出羽国今月十九日奏状稱。狡寇未平、戎士多没。請援彼国、已及五度。而多経旬日、未有来救。孤城拒守、事変難測者。今如来奏、甚似惰慢。仮有当府之不虞、何忘隣境之危急。宜早差発兵二千人、応機奔救。斉心同力、撲掃妖気。若重稽引、国有厳刑。速施破竹之勢、勿貽反水之悔。』又勅符上野下野両国曰。得出羽国今月十九日奏、已知凶類気盛殺略良民。鼠輩発狂狼戻無已。不加利刃、何懲逆心。宜各初一千兵、星夜赴救、表裏合勢、腹背攻撃。凡隣境之義、実須相援。況於国賊、何不共討若致遅留、論之如律。亦其所発之士、各備路粮。便遣国司目已上一人、史生品官一人、押領其事。已此一挙之兵、早成万全之計。
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[五月]
p.488
五日庚子。停端午之節。
▼是日。陸奥国守正五位下源朝臣恭飛駅奏言。発兵二千人、差遣出羽国既畢。更依彼国請、亦発五百人。又恐。当国之夷、依隣国之警、動其狼心、掉其萬尾。請発援兵二千人、以守要害之処。』勅符曰。得彼国去月廿五日奏状、具知差発援兵、赴救出羽。亦来奏以為、凶逆詐態、日衰縁隙。請発国内之控弦、以備醜類之逆寇。事在慎微。俯依来奏。今須簡練精勇、拒守要害、兼張遉邏、令其候望。但軍興之後、府帑無余。久動士衆、恐費粮食。量施方便、早休労役。奉我朝威、以警夜事。』勅曰。出軍之道、用兵之方、事有緩急、理亦軽重。而或国発軍之後、飛駅言上其由。徒驚物聴、無益於事。宜令上野下野陸奥出羽等国、自今以後、駅逓奏上、一如延暦十三年二月乙未勅。
‥‥
[六月]
pp.489,490
七日辛未。
出羽国守藤原朝臣興世飛駅奏言。権掾小野春泉、文室有房等、在秋田営。去四月十九日、遣最上郡擬大領伴貞道、俘魁玉作宇奈麻呂、将官軍五百六十人、須候賊類形勢。路遇賊三百余人合戦、射傷賊十九人。官軍被傷七人。貞道中流矢而死。廿日賊衆増加、不可相敵。会暮戦罷、引軍還営。明日凶徒挑来接戦。賊試射五十三人、瘡者卅人。官軍死并瘡痍者廿一人。奪取賊弓卅一、靭廿五、襖十七領。米穀糒稲、亦復有数。焼賊廬舎十二、生虜七人。官軍疲極、射矢亦尽。因引還営。今月七日、重遣宇奈麻呂、登高候望。俄爾遇賊、抜剱剣相戦、斬首二級。宇奈麻呂、没於賊手。其後有俘囚三人来言。賊請秋田河以北、以為己地。更有賊五人、着甲冑、伏隠草中。遣軽兵百余人、追射殺三人、奪鞍馬弓矢靭剱等物有数。自後賊徒猥盛、浸凌不息。官軍征討、未由摧滅。
▼重飛駅言曰。権介藤原朝臣統行、権掾小野春泉、文室有房等、進至秋田旧城。蓄甲積粮。陸奥押領使大掾藤原梶長等、所将援兵、与本国兵卒、合五千余人、聚在城中。賊出不意、四方攻囲、官軍力戦、賊勢転勢。権介統行等、戦敗而帰。権掾有房、殊死而戦、殺賊数人、賊矢中左脚、被瘡逾厲。軍無後継、擿身逃帰。権介統行男、従軍在戦、及権弩師神服直雄、並戦而死。甲冑三百領、米糒七百碩、衾一千条、馬一千五百疋、尽為賊所取。自余軍実器仗什物、一無在存者。
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pp.491,492
十六日庚辰。雷電、雨下如倒井。京城之内、溝渠皆溢、霹靂於東寺幡竿。▼出羽国守藤原朝臣興世飛駅奏言。賊峯強盛、日増暴慢。囲守営所、視無去意。官軍畏懦、只事逃散。陸奥軍士二千人、押領使大掾藤原梶長等、窃求山道、皆悉逃亡。』即日、勅符曰。重有来奏、具得事趣。依先日奏、遣陸奥鎮守将軍小野朝臣春風、権介坂上大宿祢好蔭等、各領精勇五百人、日夜赴彼既畢。事具前符。亦依今日奏、更下陸奥国、追還逃亡兵士二千人。国宜知之、率其虎旅、□彼烏合。当奉王師之威、早献凱帰之効。』又勅符陸奥国曰。得出羽国奏稱。逆虜縦逸、獷暴日甚。彼国軍士二千人、顧望避敵、亡帰本国者。断勢制勝、自有其方。而今各重身躯、無意掠戦。粮資醜類、力屈凶威。豈回王者之師、自貽敗軍之耻。宜更選定国司主典已上精強了事者、令領彼亡帰二千兵、早入出羽。若彼逃亡人等。未尽帰集者、更簡更兵、加足前数。夫将軍死綏、誅之無救。故曰。有前一尺、無却一寸。宜知此意、諭夫兵士、令其自知。若重亡帰者、以軍法従事。
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『日本三代実録』「卷第卅四 起元慶二 (878) 年七月尽元慶二年十二月」
[七月]
pp.494,495
十日癸卯。
出羽国飛駅奏曰。正五位下守右中弁兼権守藤原朝臣保則到国、察向前之行事、運行軍之籌策。
遣権掾文室真人有房、左衛門権少尉兼権掾清原令望、上野押領使権大掾南淵秋郷等、率上野国見到弊六百余人、屯秋田河南、拒賊於河北。又秋田城下賊地者、上津野、火内、榲淵、野代、河北、腋本、方口、大河、堤、姉刀、方上、焼岡十二村也。向化俘地者、添河、覇別、助川三村也。令此三村俘囚并良民三百余人、拒賊於添河。次攻雄勝、後浸府。其雄勝城、承十道之大衝也。国之要害、尤在此地。仍遣左馬大充藤原朝臣滋実、左近衛将曹兼権大目茨田貞額等、以雄勝、平鹿、山本三郡不動穀、給郡内及添河覇別助川三村俘囚、慰諭其心、令相励勉。
於是、俘囚深江弥加止、玉作正月麻呂等、誘率三村俘囚二百余人、夜襲殺賊八十人、焼其粮食舎宅、感恩賚也。
或云。津軽地夷狄或同、或不同。若不同者、以上野国軍、将得討滅。遂同者、雖大兵難可輙制。上野、下野、陸奥三国軍士、惣四千人。其陸奥軍先既亡帰。上野軍旦来六百余人、下野軍雖入堺首、未知強弱。津軽夷俘、其党多種、不知幾千人。天性勇壮、常事習戦。若速逆賊、其鋒難当。請発常陸武蔵両国軍合二千人、以誡備非常。
▼是日。
勅符曰。去月廿八日奏状、今日到来。賊中消息、委曲具至。指其事実、足可見知。夫以夷狄攻夷狄者、中国之利也。今覧来奏、給於勝郡俘囚、以官米穀、多破賊徒、豈此一挙、計之上者也。亦来奏以為。津軽夷虜、天性麁獷。若速凶類、実為難制。塞下流言。南北異口。或云既同、或云未同。請発常陸武蔵等国兵、備其非常、出於不意。今如奏状、同非未審。若果不同者、所率見兵可得摧破。加之小野朝臣春風、坂上大宿祢好蔭等、各領精兵、行当到著。宜待共征振其威武。但予勅諸国、令簡勇士。若有危急、馳伝上奏。随即差発、赴救非晩。務運奇策、撃其凶心。滋実者、守藤原朝臣興世之子也。有意温清、繋行在彼。時値賊乱、早不肯還。有勅、便令従軍也。』出羽国正三位勲五等大物忌神、正三位勲六等月山神并益封各二戸。本并各四戸。毎発軍使国司祈祷。故有此加増也。
‥‥
[十月]
pp.501,502
十二日甲戌。出羽国司飛駅奏言。秋田営申牒偁。八月廿九日、逆賊三百余人、来於城下、願見官人特得乞降。権掾文室真人有房、左馬権大充藤原朝臣滋実二直到賊人、単騎直到賊所。賊先申心憂、次乞降。有房等雖不被明詔、而予聴其降。
▼是日。
陸奥権介従五位下坂上大宿祢好蔭、率兵二千人、自流霞道至秋田営。賊乞降之日、好蔭鼓躁而来。盛建旗幟、亦威賊虜。論之当時、似有遠略。又鎮守将軍従五位下小野朝臣春風、九月廿五日、率軍四百七十人、来着秋田営以北。即言曰。春風重含詔、先入上津野、教喩賊類、皆令降服。賊首七人、相従同来。従去八月、賊降之状、相続不絶、野心難量、抑而不許。今春風自入賊地、取其降書。亦其酋豪随而共来。以此見之、知有降心。但義従俘囚等申云。奉従国家、為賊所怨。若不殄滅、後必相報。仇家多種、何得不恐。加之、乞降者、其体疎慢、不叶旧例。俘囚所陳抑有道。春風所行亦復不虚。臣等不知所裁。謹佇明詔。
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『日本三代実録』「卷第卅五 起元慶三 (879) 年正月尽五月」
[正月]
p.507
十一日辛丑。
従五位上守左近衛少将兼行大宰権少弐藤原朝臣房雄為少弐。少将如故。(云々。廿三人。)
▼是日。出羽国飛駅奏言。去年十二月十日、凶賊悔返噬之過、致束手之請。便返進所略奪之甲廿二領言曰。所取甲冑。其数不少。任己狂心。皆悉載破。称身約裁。一无全者。加之、賊類或入奥地、或所居隔遠。其遺甲冑、捜求追進。於是、正六位上行左衛門権少尉兼権掾清原真人令望。左馬権大充正七位下藤原朝臣滋実。右近衛将曹兼権大目従七位上茨田連貞額等進議曰。今乞降之賊二百人。所進甲冑已少。野心難測。疑是矯飾。須待後進、一度計納。陸奥鎮守将軍従五位下小野朝臣春風議曰。春風自入賊地、具知逆類悔過之心。今亦蒙犯霜雪、乞降懇切。若懐疑虜、抑而不納、猶去逸就労、非所以楽成。正五位下守右中弁兼行権守藤原朝臣保則等商量。雖令望之議、已有道理、而春風之謀、非无便宜。故殊加慰納、緩其厳誅。亦渡嶋夷首百三人、率種類三千人、詣秋田城。与津軽俘囚不連賊者百余人、同共帰慕聖化。若不労賜、恐生怨恨。由是、遣従五位下行権介藤原朝臣統行。従五位下行権掾文室真人有房及令望。滋実。貞額等労饗。
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引用文献
- 『続日本紀』「天平九[737]年四月戊午」
- 直木孝次郎・他 [訳注]『続日本紀 1』, 平凡社, 1986
- 同『続日本紀 2』, 1988
- 维基文库
- 『日本三代実録』
- 経済雑誌社[編]『国史大系 第4巻 日本三代実録』, 経済雑誌社, 1901
- 维基文库
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