Up 渡党とアイヌの関係 作成: 2020-02-18
更新: 2020-02-18


      高倉新一郎 (1959), pp.4,5
     蝦夷ケ島の住民についてやや詳細な記事が見えるのは「諏訪大明神絵詞」である。
    これは信濃国諏訪神社の神主で、足利尊民から重く用いられた小坂円忠が、延文元年(1356) に、当時紛失していた同神社の祭絵を再興しようとして、文筆家・画人等の協力を得、完成したもので、縁起三巻・祭七巻より成っていた。
    その縁起は、いうまでもなく、諏訪大明神の霊験を数え挙げているのであるが、その第三巻に、元亨二年から正中二年(1322 - 5)にかけて津軽の豪族安東家に嫡庶争があり、兄弟同志干戈(かんか)を交えたので、幕府がこれを鎌倉に呼んで裁判中、残った者が人数を集めて乱を起したため、討手を差向けたが、中々手強く、討手も攻めあぐんで冬を迎え、非常な苦戦が予想されたところ、諏訪明神の霊験によって突然敵が降伏し、無事凱旋することが出来たという記事がある。
    この乱には安東氏方に多くの蝦夷が参加し、その中には蝦夷ガ千島の蝦夷も加わっていたため、偶然にも蝦夷島の住民についてやや詳しい記事が残されたのである。
    その文は、
      蝦夷カ千嶋ト云ヘルハ我国ノ東北ニ當テ大海ノ中央ニアリ。
    日ノモト唐子渡党此三類各三百三十三ノ嶋ニ群居セリト。
    一嶋ハ渡党ニ混ス。
    其内ニ字曾利鶴子萬堂宇満犬ト云小嶋トモアリ。
    此種類ハ多ク奥州津軽外ノ浜ニ往来交易ス。
    (エヒス)()云ハ六千人也。
    相聚ル時ハ百千把ニ及ヘリ。
    日ノ本唐子ノ二類ハ其地外国ニ連テ、形體夜叉ノ如ク変化無窮ナリ。
    人倫禽獣魚肉ヲ食トシテ、五穀ノ農耕ヲ知ス(しらず)
    九譯ヲ重ヌトモ語話ヲ通シ竪シ
    渡党ハ和国ノ人ニ相類セリ
    但鬚髪多シテ遍身ニ毛ヲ生セリ。
    言語俚野也ト云トモ大半ハ相通ス
    此中ニ公超霧ヲナス術ヲ傳へ、公遠陰形ノ道ヲ得タル類モアリ。
    戦場ニ望ム時ハ丈夫ハ甲冑弓矢ヲ帯シテ前陣ニ進ミ、婦人ハ後塵ニ随ヒテ木ヲ削リテ幣帛ノ如クニシテ天ニ向テ誦呪ノ體アリ。
    男女共ニ山壑ヲ経過スト云トモ乗馬ヲ用ス。
    其身ノ軽キ事飛鳥走獣ニ同シ。
    彼等カ用ル所ノ箭ハ遺骨ヲ鏃トシテ毒薬ヲヌリ、纔ニ皮膚ニ觸レハ其人斃セスト云事ナシ
    (諏訪史料叢書巻二所収による)
    とある。
    例えば夷一把というのは六千人云々というところのように、意味のよくとれない部分もあるが、
      毛が深く、漁猟生活をし、骨鏃の毒矢を使い、男が戦う背後から女が木幣をもって祈る
    といった叙述は全くアイヌのそれである。
    霧を起す術は鎌倉時代に編まれた「夫木集」の有名な和歌
     こさ吹かぱ くり色ぞする みちのくの 蝦夷には見せし 秋の夜の月
    の意に通ずる考えで、古から蝦夷はコサを吹いて月をも曇らせる妖術を知っていると考えられ、コサは月を曇らせるから霧と解せられていた。
    金田一博士はこれをアイヌが悪魔払いに husa! husa! と呼ぴながら強く息を吹く一種の呪術と解している (胡沙考)。
    身を隠す術は、同じくアイヌの妖術として知られるシノツサを逮想させる。
    日ノ本・唐子・渡党の三派については、
    喜田貞吉博士は、日の本は近藤重蔵がウルッブ以東の島々に用いたチュプカ (アイヌ語日の出の意)、唐子は樺太に住むオロッコ、渡党は和人の松前占拠の先駆をなした熟蝦夷に比定し、
    金田一京助博士は、唐子をカラトと呼ばれた樺太と解し、今日のアイヌの三大分派、すなわち樺太アイヌ、日高の静内以奥のアイヌ及び以西のアイヌに比している。
    萬堂宇満伊犬はマトウマイイヌと読まれて今日の松前を指し、
    宇曽利鶴子はウソリケシ、すなわち今日の函館の古名だろうと思われる。
    共にアイヌ語である。
    『諏訪大明神絵詞』


    日ノ本・唐子・渡党は,みな狩猟採集生活者である。
    つぎに,この3つはみなアイヌ──アイヌ文化の者──なのか,それともアイヌでないものがあるのか。
    これはわからない。

    それでも,つぎの二つを考え合わせれば,少なくとも渡党はアイヌであるとするのが落ち着きがよい:
    1. 「渡党ハ和国ノ人ニ相類セリ,但鬚髪多シテ遍身ニ毛ヲ生セリ」が伝えられた1322-5年と,蠣崎光広 (北海道蠣崎氏の祖) がアイヌのいる北海道に渡った1514年との時間的近さ
    2. 東北アイヌと北海道アイヌは,渡党をアイヌにするとうまくつながる


    引用文献
    • 高倉新一郎 (1959) :『蝦夷地』 (日本歴史新書), 至文堂, 1959