「偏見」は,「アイヌ観光」がこれを要する。
アイヌは過去のものである。
一方,「アイヌ観光」は,「ここにアイヌがいますよ」「これがアイヌですよ」観光である。
「アイヌ観光」は,アイヌなどいないことがわかってしまったら,成立しない。
「アイヌ観光」は,「ここにアイヌがいますよ」「これがアイヌですよ」を強力にPRして,アイヌがいないことを隠蔽していかねばならない。
アイヌに無知な者は,「アイヌ観光」が発信してくる「アイヌ」を,そのまま受信する。
そこで,無邪気に,つぎのように尋ねるわけである:
「アイヌ人に日本語が分りますか?」
「何を食べて居りますか?」
この無邪気は,好意である。
しかし,「観光アイヌ」でない "アイヌ" は,この質問から,シャモのアイヌに対する<偏見>を受け取る。
そしてさらに,<蔑み>を勘ぐる。
「偏見」は,つぎの三者の間の話である:
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・ 観光 "アイヌ"
・ 間抜けな "シャモ"
・ 純真 "アイヌ"
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したがって,彼らが健在でいるうちは,「偏見」の話題は無くならない。
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貝澤藤蔵 『アイヌの叫ぴ』(1931)
所収 :『アイヌ民族 近代の記録』, 草風館, 1998. pp.373-389.
pp.374,375
太平洋に面した北海道の一漁村、白老村はアイヌ部落として名高く年々内外人の参観する者が沢山来ます。
白老村は比較的交通の便よく、駅よりコタン(部落) 迄は僅七町位の道程なれば、短時間にて参観出来、殊に七八十戸のコタンは草葺の掘立小屋多く、昭和の今日猶ほ原始生活を偲ぱしむるものがあるからであります。
私は、コタンの旧家にして参観者の最も多く立寄る熊坂老に頼まれて、近年参観者の出迎へをなしウタリ(同族) 等の生活状態を解説して居た貝沢であります。
故に内地では顔見知りの人々が沢山居ります。‥‥‥
内地に居られる人々は、未だ、アイヌとさえ言へば、木の皮で織ったアツシ(衣類) を着て毎日熊狩をなし、日本語を解せず熊の肉や魚のみを食べ、酒ばかり呑んで居る種族の様に思ひ込んで居る人が多い様でありますが、之は余りにも惨なアイヌ観であります。
折襟にロイド眼鏡を掛けた鬚武者の私が、毎日駅に参観者の出迎へに出ると、始めて北海道に来た人々は、近代的服装をしたアイヌ青年を其れと知る由もなく、私に色々な質問をされます。
内地でも片田舎の小学校の先生かも知れません其人に、「アイヌ人に日本語が分りますか?何を食べて居りますか?」と質された時、私は呆れて其人の顔を見るより、此人が学校の先生かと思ふと泣きたい様な気分になりました。
「着物は?食物は?言語は?」とは毎日多くの参観者から決って聞かれる事柄です。
けれど此様に思はれる原因が何処にあるかとゆふ事を考へた時、私は其人々の不明のみを責め得ない事情のある事を察知する事が出来ます。
常に高貴の人々が旅行される時大抵新聞社の写真班が随行されますが、斯うした方々が北海道御巡遊の際、支庁や村当局者が奉送迎せしむる者は、我々の如き若きアイヌ青年男女では無く、殊更アツシ(木の皮で織った衣類) を着せ頭にサパウンベ(冠) を戴かしたヱカシ(爺)と、口辺や手首に入墨を施し首に飾玉を下げたフツチ(老嫗) だけです。
此の老人等がカメラに納められ、後日其の時代離れのした写真と記事が新聞に掲載される時、内地に居てアイヌ人を見た事のない人々は誰しもが之がアイヌ人の全部の姿であると思ひ込むのも無理ない事だらうと思ひます。
否々其ればかりではなく、時偶内地に於て内地人がアイヌ人を見受ける時は、山師的な和人が一儲けせむものと皆を欺し、アイヌの熊祭と称して見世物に引連れて居る時であります。
之じゃ何時迄経っても内地に居られる人々は熊とアイヌ人とを結び付けて考へるだけであって、真に時代に目覚めたアイヌ人の姿を見、其の叫ぴを聞き得ない訳であります。
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これは,過去の話ではなく,いま (2017年) もそのままである。
「アイヌ政策推進会議」(2010〜) 開催の報道に,時代離れのしたアイヌ衣装の者が映し出される。
そして「アイヌ政策推進会議」が打ち出す「アイヌ観光」キャンペーン強化の方針に対応して,いま北海道のメディアは,アイヌの○○と称して,タレントを見世物に引連れている真っ最中である。
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