ヘイト・スピーチは,類型的である。
独創的なヘイト・スピーチというものは,無い。
なぜなら,ヘイト・スピーチは,時流がこれを発声させているからである。
そこで,ヘイト・スピーチについて考えることは,それがどんな時代状況・思想状況で発せられているかを,考えることである。
「権力」「支配者」「搾取」のことばを好んで使うヘイト・スピーチは,つぎの思想に感化されている:
|
本多勝一「凌辱者シャモにとるべき道はあるか」
『コタンの痕跡』, 旭川人権擁護委員連合会, 1971. pp.79-94.
pp.92,93
偏見は、権力側がいつまでも権力にしがみついていたいときに、被抑圧者同士を一層いがみあわせ、団結力を失わせる作用として創りだされ、あるいは利用される。
黒人をテロで殺すのは、同じように抑圧された貧しい白人であることが多い。
こうした構造を持つ「偏見」というものは、従って支配者にとっては誠に好都合な存在である。
被抑圧者たちの力はこれによって分断され、弱めることができるのだから。
その支配者が財界であるところの資本主義国にあっては、搾取対象の民衆 (国の内外を問わず) の間に偏見があればあるほど望ましいことになる。
結論は、かなりはっきりしてきたようだ。
少数民族は、少なくとも私の接した諸外国の例でみるかぎり、社会主義社会でこそ真に幸福が約束されている。
いわゆる西側諸国、資本主義諸国の少数民族は、ひとつの例外もなく不幸だった。
私の訪ねたことのない国に関してはよく知らないが、真に幸福な、プタの幸福でなくて、民族的誇りをともなった幸福感を抱いている少数民族というもののある資本主義国があったら、ぜひ知りたいと思っている。
だが、これもまだ訪ねたことはないが、社会主義社会でもソ連はどうなのだろうか。
スターリンは一種の少数民族出身といえよう。
チェコやポーランドとの関係でのソ連には、いわゆる修正主義の欠陥が現れているようだが、ソ連内の少数民族はどうなっているのか。
同様に多数の少数民族をかかえる中国はどうか。
いずれも訪ねて実見してみたいところである。
現状は見るまでおあずけとしても、社会主義建設がもし理想的にいっていれば、少数民族が幸福になるはずであることは確かだが、資本主義建設 (?) がいくら理想的にいっても、少数民族が幸福になることは、まずおぼつかないであろう。
アイヌ系日本人についても、これは当てはまるのだろうか。
社会主義社会というようなことをいうと目をむく人があるので、少し遠慮がちに一言うならば、当てはまらないと結論するような材料は今のところ持ちあわせていなぃ。
従ってアイヌが真に幸福になる道は、日本が社会主義国になることであろう。
アイヌ自身のとるべま道は、従って革進陣営に何らかの形でくみすることであろう。
(最近アイヌ系日本人によって創刊された雑誌『北方群」には、明らかにそのような方向を示していることが感じられ、心強く思われた。)
革進政党のとるべき道は、ペトナムの例が示しているように、少数民族がへレン・フォークに対して抱きつづけてきた怨念を、革命勢力に正しくくみこみ、強力なパネへと転化させることであろう。
アイヌについて「良心的」たろうとするシャモのとるべき道は、従ってこのような運動に何らかの方法で、それぞれが可能なやりかたで、加わることであろう。
いかにアイヌ「仲良し」になって「研究発表」してみても、それだけではいつまでも状況は変らぬであろう。
|
|
この思想は,社会主義イデオロギーである。
このときの本多勝一にとって,スターリン/ソ連,毛沢東/中国は,まだ善である。
社会主義は,「階級的憎悪」を用いる:
「 |
この世界は,抑圧者と被抑圧者である。
抑圧者を倒せば,抑圧が無くなり,よい世界になる。
抑圧者は,被抑圧者を分断し,互いにいがみ合わせる。
怨念の使い方を間違えるな。
怨念を、革命勢力に正しくくみこみ、強力なパネへと転化させよ!」
|
本多勝一が言っている
「 |
アイヌについて「良心的」たろうとするシャモのとるべき道は、このような運動に何らかの方法で、それぞれが可能なやりかたで、加わること」
|
は,当時「アンガージュマン engagement」と呼んだものである。
当時の「インテリ」「学者」は,多くがこの思想に洗脳されてしまうことになる。
毛沢東の文化大革命の紅衛兵は,小学生からの学生である。
これが,「インテリ」「学者」をつるし上げる。
時代は,革命ヒステリーの増長と理性劣化の時代であった。
こうして,「インテリ」「学者」が革命的意識の高さを競うようになる。
「アイヌ学者」の歴史認識の程度の低さは,その時の学術劣化がずっとたたっていることを,示すものである。
|
|
|
|