Up ヘイト喚起 : 要旨 作成: 2017-01-29
更新: 2017-01-29


      貝沢正「近世アイヌ史の断面」, in『コタンの痕跡』,1971. pp.113-126
    pp.125,126
     私は自らの意見も言わず、例を述べるに過ぎないが共感を得たものを列記した。 もう一つ、十勝の女子高校生の稿をお借りして新しいアイヌの考えを知ってもらいたい。

    歴史を振り返ることによって真の怒りを持つことができる
    「差別されたから頭に来た、あいつらをやっつけたい」
    それはそれだが、そんな小さな問題に目を向け右往左在しているだけでは駄目だ。
    私たちがアイヌ問題を追って行く時突き当る壁は同化ということだ。
    明治以来の同化政策の波は、もはや止めることはできないだろう。
    私は、何とか、アイヌの団結でシャモを征服したいものだと思った。
    アイヌになる。
    北海道をアイヌのものにできないものか。
    だが、アイヌの手に戻ったとしても差別や偏見は残るだろう。
    やはり、根本をたたき直さねばならないのです。
    アイヌは無くなった方がよいという考え方、シャモになろうとする気持が、少しぐらいパカでもいいからシャモと結婚するべきだと考えている人が多いと思う。
    私の身近でも、そういう人が随分いる。
    私はこのような考え方には納得できない。
    シャモに完全に屈服している一番みにくいアイヌの姿だと思う。
    これは不当な差別を受けても "仕方がないのだ " と弱い考え方しかできない人たちなんだと思う。
    アイヌだから、差別されるから、シャモになった方が得なんだと言うなら、それは悪どい、こすいアイヌだ。
    なぜ差別を打倒しないのか
    なぜ、アイヌ系日本人になろうとするのか。
    なぜアイヌを堂々と主張し、それに恥ることのない強い人間になれないのか。
    どうしてアイヌのすばらしさを主張しようとしないのか?
    私は完全なアイヌになりたい。
     個人が自己を確立し、アイヌとして真の怒りを持った時、同化の良し悪しも片づけることが出来ると思う。
    強く生きて、差別をはね返す強い人間になることだ。』


    「歴史を振り返ることによって真の怒りを持つことができる」
    そう,この女子高校生は,ヘイト喚起型歴史テクストの作品である。
    ヘイト喚起型歴史教育は,この女子高校生のような者の産出が,目的である。

    「差別されたから頭に来た、あいつらをやっつけたい」
    今風だと,つぎのような感じである:
      「祭りで賑わっている和人の中に,大型トラックを突っ込ませる」
      「和人のいるレストランに,銃で襲撃をかける」
      「空港に爆弾を仕掛け,和人をぶっとばす」

    この者たちは,つぎの考えになる:
      アイヌはなぜ怒らないのか
      弱い考え方しかできない,みにくい姿の,悪どい,こすいアイヌたち
      自分は,そのような者たちとは違う

    ひとは,この類型を,いやというほど見てきた。
    しかし,若い者は,見たことがないから,自分を特別な場合だと思う。


    このような若者をつくろうとし,このように出来上がってきた若者にエールを送る者は,どのような者か。
    ガチガチの原理主義者・怨念モンスターを想像するかも知れないが,そうではない。

    貝沢正とは,つぎのような,むしろ起業家肌の生活者である:

      二風谷部落誌編纂委員会『二風谷』, 二風谷自治会, 1983.
    pp.233-235
     二風谷上地区の民芸品街が現在のように形づくられ始めたのは、昭和40 [1965] 年からである。この年日勝峠が開通した。前年の東京オリンピック開催で日本はようやく国際的に他国と肩を並べられるまで戦後の経済は復興して、日本に旅行ブーム,レジャーブームのきざしが現われた頃である。
     利にさとい二風谷の人々は、逸早くこの旅行ブームに目をつけ、日勝道路が開通すると、国道沿いにアイヌ民芸品店を作って商売することを考えついた。
    まず‥‥‥その次に‥‥‥
    そこで貝沢正がバラック建ての民芸品販売用貸店舗を建てたので、ここに最初の二風谷民芸品店ができた。
    昭和43 [1968] 年には‥‥‥、昭和46 [1971] 年‥‥‥。
    その間に、萱野茂、‥‥‥などの貸店舗や民芸品店が軒を並べて、今日の二風谷商店街の基礎を作った。‥‥‥
     昭和45 [1970] 年から始まった8月20日のチプサンケ祭りの夜は、毎年この商店街前の広場で懸賞付盆踊り仮装大会も開くようになり、昭和53年には、町の一部補助と各戸の負担金によって商店街前の広場も舗装された。

    『対談「アイヌ」』日高文芸, 第6号,1970.
    (『沙流川(さるがわ)―鳩沢佐美夫遺稿』, 草風館, 1995, pp.153-215)
     
    pp.187,188
     で、そういったことでさ、この町内のとある地区がね、今、着々とそのアイヌ観光地として売り出そうとしているんだ。 なんかね、とうとう──来るべきところまで来たっていう感じなんだ。
    昭和三十五年に、そのいわゆる "旧土人環境改善策" なるものを打ち出さなければならないんだ、という、不良環境のモデル地区、ね、写真入りで新聞に報道されたりした地域だ。──
    最近では、公営住宅や、またそれぞれの努力などで、十年前の家庭はほとんど姿を消してしまった。
    が、その生まれ変わったはずの聚落が、今度は俗悪なアイヌ部落の亜流化をくみとろうとしている!──。
    なぜ、景勝や古蹟の乏しい山林に、こういった特殊施設を、アイヌ自ら、しかも今日の時点において作ろうとするのかね──。 ‥‥‥
     そのことを彼たちに質すと、「アイヌがやらなければ、悪質なシャモ (和人) が勝手にアイヌの名をかたり、金儲けをするから」と言う。
    「じゃ、そういう悪質シャモの排除にこそ努めるべきでないか?」ときくと、「われわれも、そのことで潤っている」──。つまり、観光のおかげで部落もよくなり、業者からピアノも贈られた (小学校)。何十万とかの寄付もあった──と、並ベたてられる。
    「今それをやめろというのなら、じゃわれわれの生活をどう保障する」と逆襲さえしてくる始末。
    そして、ね、これまで自分たちは観光業者に利用されて各観光地に立っていた。だから、どうせやるんなら、そんな他所の土地で、シャモに利用されるんでなく、自分たちの部落でやったほうがいいのだ──という割切り方。
    しかもだよ、ジョークなのか、アレゴリーなのか、昔はアイヌといって、われわれはバカにされた。今度はひとつ、われわれアイヌを見にくるシャモどもをふんだまかして、うんと金をまきあげてやる。「なあに、適当なことをやって見せれば、喜んで金を置いていくからな」‥‥‥。
    ね、ドライというか、くそくらえバイタリティというか、とにかく、見上げたショーマンイズム──。


    そもそも,"アイヌ" の運動の指導的立場に就く者は,才能のある者である。
    「アイヌ」を売りにする商売に目をつけないわけが,ないのである。
    "アイヌ" の運動の指導者は,イデオロギーと「アイヌ観光」の両手使いの者がこれになっていく。
    野村義一などは,本多勝一によると,ライオンズクラブのメンバーであり自民党員であった。

    シャモヘイト高校生女子に対する「観光アイヌ」のエールは,「皮肉」と見るものではない。
    ヘイトの歴史テクストを編み「過激派」を養うのは,つねにこのような存在である。

    「観光アイヌ」は,コンプレックスから,体制打倒の論攷を編む。
    コンプレックスがつくるので,それはグロテスク (愚劣) な思想になる。
    このグロテスクを認めるには,1900年代前半の "アイヌ" の論攷と比較するとよい。
    それらは,ずいぶんと理知的である。

    体制打倒イデオロギーが増長する時代は,思想が荒む時代である。
    そして,体制打倒イデオロギーに商業主義が結びつくとき,荒んだ思想はさらに汚くなる。
    "アイヌ" の場合は,1960,70年代がその時であった。