Up 『イデオロギー』: はじめに 作成: 2017-02-19
更新: 2017-02-19


    今日,ひとが「アイヌ」のことばから連想するのは,「アイヌ差別」である。
    これは,「アイヌ差別」プロパガンダの成果である。
    また実際,いまこの時代に「アイヌ」を自称している者たちは,「差別されてきた民族の歴史」を自分のアイデンティティーにしようとしている者たちである。

    このアイデンティティーの形,そして「差別」のことばのこのような用法は,古くからあったものではない。
    1970年前後から起こったものである。
    何がそのときあったか。
    新左翼ムーブメントがあった。
    よって,「差別」のことばの意味は,その時代に何があったか溯って見ていかなければ,わからない。


    その時節より前の同化派"アイヌ" は,「蔑む」を使った。
    「差別」のことばはまだ無い。
    実際,「差別」のことばは,海の向こうからやってきた。
    「ベトナム戦争」を背景に,「黒人差別/人種差別」を代表格に「差別」が言論になり,これが日本に入って来る。
    「差別」探しで,「アイヌ」にヒットする。
    こうして「アイヌ差別」のことばが出てくる。

    「差別する」と「蔑む」は,意味構造が違う。
    「差別」の論考をつくろうとする者は,この違いを先ずわかっていなければならない。 ──この点で,「アイヌ学者」はことごとく失格である。

    「アイヌは差別されている」には,「アイヌはいまのままでよい」が含蓄されている。
    「アイヌは蔑まれている」には,「アイヌはいまのままでよい」の含蓄はない。
    実際,同化派"アイヌ" は,「アイヌは蔑まれている」の含意を「アイヌは蔑まれない者に変わらねばならない」にして,自ら変わることに進んだわけである。

    「アイヌはいまのままでよい」の方は,「アイヌを差別する者を変えねばならない」になる。
    「アイヌを差別する者を変える」は,戦いである。
    戦いは,勝たねばならない。
    そこで,戦いの大義を立て,勝つための戦略・戦術を立てる。
    戦いの大義は,「悪者が敵だ!」である。
    そこで,「和人=悪者」の論をつくる。
    こうして,1970年以降は「和人=悪者」論量産の時代となる。


    この流れの中で,戦いを構えにする "アイヌ" ──戦闘的"アイヌ" ──だけが "アイヌ" として残っていくことになる。
    即ち,保護派"アイヌ" であったが戦闘を構えにしようとしない者たちは,"アイヌ" シーンから去っていく。
    あるいは,姿を潜め,おいしいところがあればそれをもらおうとする者──「アイヌ利権」パラサイト"アイヌ" ──になる。

    戦闘的"アイヌ" にとって,非戦闘的"アイヌ" は,二重の意味がある:
    1. 戦闘に加わろうとしない卑怯な者たち・意識の低い者たち
    2. 自分が孤立しないで済むために必要な者たち
      ──彼らがいるので,自分は「アイヌの代表」を騙れる

    戦闘的"アイヌ" は,非戦闘的"アイヌ" を嫌悪し,檄をとばし,持ち上げる。

      貝沢正「近世アイヌ史の断面」, in『コタンの痕跡』,1971. pp.113-126
    pp.125,126
     私は自らの意見も言わず、例を述べるに過ぎないが共感を得たものを列記した。 もう一つ、十勝の女子高校生の稿をお借りして新しいアイヌの考えを知ってもらいたい。

    歴史を振り返ることによって真の怒りを持つことができる
    「差別されたから頭に来た、あいつらをやっつけたい」
    それはそれだが、そんな小さな問題に目を向け右往左在しているだけでは駄目だ。
    私たちがアイヌ問題を追って行く時突き当る壁は同化ということだ。
    明治以来の同化政策の波は、もはや止めることはできないだろう。
    私は、何とか、アイヌの団結でシャモを征服したいものだと思った。
    アイヌになる。
    北海道をアイヌのものにできないものか。
    だが、アイヌの手に戻ったとしても差別や偏見は残るだろう。
    やはり、根本をたたき直さねばならないのです。
    アイヌは無くなった方がよいという考え方、シャモになろうとする気持が、少しぐらいパカでもいいからシャモと結婚するべきだと考えている人が多いと思う。
    私の身近でも、そういう人が随分いる。
    私はこのような考え方には納得できない。
    シャモに完全に屈服している一番みにくいアイヌの姿だと思う。
    これは不当な差別を受けても "仕方がないのだ " と弱い考え方しかできない人たちなんだと思う。
    アイヌだから、差別されるから、シャモになった方が得なんだと言うなら、それは悪どい、こすいアイヌだ。
    なぜ差別を打倒しないのか
    なぜ、アイヌ系日本人になろうとするのか。
    なぜアイヌを堂々と主張し、それに恥ることのない強い人間になれないのか。
    どうしてアイヌのすばらしさを主張しようとしないのか?
    私は完全なアイヌになりたい。
     個人が自己を確立し、アイヌとして真の怒りを持った時、同化の良し悪しも片づけることが出来ると思う。
    強く生きて、差別をはね返す強い人間になることだ。』


    「アイヌ学者」は,「差別」を論じ出すと,ほんとうにどうしようもない者──愚鈍な者──になる。
    イデオロギーがわかっていないのである。
    イデオロギー,思想,科学の違いを知らない。

    ただしこれは,一般的なことではある。
    思想を論じているつもりの者のほとんどは,思想とイデオロギーがごっちゃになっている。


    思想とイデオロギーの違いを簡単に言ってしまえば,つぎのようになる:
      思想は,対象を物理系として措定する。
      イデオロギーは,対象を善玉・悪玉にする。

    実際,思想は,科学をスタンスにする。
    本当は科学として提示できればよいのだが,科学のレベルに遠く及ばないので「思想」と称するのである。

    科学──物理学,化学,気象学,生物学,等々──に,善玉・悪玉はいない。
    よって,思想の対象に善玉・悪玉はいない。
    翻って,対象を善玉・悪玉にするのは,思想ではない。
    「イデオロギー」が,この思考回路の呼び方である。

    イデオロギーは,「革命」を唱える:
      和人 (悪者) を殺せ!
    思想/科学は,これに対しつぎのように返す:
      商品経済 (物理系) は,殺せないぜ。
    和人が商品経済なのではない。
    和人と商品経済は,別のカテゴリーである。
    実際,和人もアイヌも,商品経済という<系>の中の<個>である。
    和人を殺しても,残った個が商品経済を負わされるだけのはなしである。──引き続き,人に格差をつくり,地域に格差をつくる。──それが商品経済だから。


    イデオロギーをやる者は,科学を知らない者である。
    ひどいのになると,科学に出会うときそこに善玉・悪玉がいないので,「これは間違っている!」を言い出す。

    本論考では「太田竜」を度々登場させることになるが,「太田竜」はこのような者である:
      太田竜「地獄へ向っての旅」
    『辺境最深部に向って退却せよ』, 三一書房, 1971. pp.5-32
    pp.6-9.
     彼 [マルクス] のこの堕落は、彼自身が「ライフワーク」としたところの『資本論』の構成のうちに全面的に展開されている。
    彼はそこでいう。 資本制生産様式のもっぱら支配する社会の富の原基形態は商品である、そして商品の交換は価値を尺度として行なわれている、と。
     私はいう。マルクスのこの理論は根本的な誤謬である、と。
     資本制生産様式は、価値法則のみによって運動するのではない。 それは、価値法則および、「原始的資本蓄積の法則」の二者の対立闘争において成立している。
     資本主義的富の原基形態は、商品および掠奪戦利品である。 マルクスは、ここで、「商品」形態のみを、彼のいわゆる「下部構造」の中にくみ入れ、「掠奪」を国家権力、上部構造に媒介された政治的現象であるとする。 それは経済学批判の問題ではない、とするのである。
     ‥‥‥
     マルクスはいう。 十九世紀中葉のロンドンにおいてこそ、資本主義経済を十全に研究する条件が与えられている、と。
     諸君、これはおかしくはないか?
     私はいう。 共産主義者にとって、十九世紀中葉のイギリス資本主義の「研究」のためには、英帝国の植民地インドにこそ、その中枢はおかれねばならない、と。
     ‥‥‥
     マルクスが書いたことのほとんどすべては、百年の世界階級闘争の実践によって、すでに陳腐となっている。しかし、ただ一つの概念、すなわち「賃金奴隷」という概念は、依然として新鮮であり、鮮烈であり、革命性を失ってはいない。

    ここで太田竜がマルクスに対して言っている「堕落」の意味は,「革命者として堕落」である。
    太田竜は「勘違いの人」──核心的なところほど見事に勘違いをやってくれる者──であるが,ここでも勘違いである。
    マルクスは,「革命者」ではない。
    まして『資本論』を書いているときのマルクスは,「革命者」ではない。
    実際,「科学者」である。

    物理学の「物体間作用」や生態学の「食物連鎖」のはなしを聴いて,「掠奪」が入ってないから誤謬だと言う者がいたら,それは科学を知らない者ということになる。
    太田竜は,この類である。
    経済学に「掠奪」は入らないし,「商品経済」のモデルになるのは「十九世紀中葉のイギリス資本主義」であって「英帝国の植民地インド」ではない。
    太田竜は,科学を知らないので,科学に対したとき,その無機性にどう応じてよいかわからない。
    そして,「賃金奴隷」のようなことばに出会って,安心する。 ──しかも悲しいかな,それは「概念」なんかではなくただのレトリックである。


    イデオロギーを思想と取り違える者は,科学に思考停止──とりわけ物理に思考停止──する者である。
    この者の思考は,「科学的」に対するところの,「マンガ的」になる。
    超常現象・超能力を夢想し,ヒーローを夢想する。
    シャクシャイン像の台座に刻まれている道知事の名を削り取るのは,革命的行動──この先にアイヌ革命の成就がある》といった具合である。
    常識の物理が,彼らには思考停止できてしまう。

    太田竜はさすがに極端な場合であるが,いまの時代に「アイヌとして」のスタンスで物を言う者は,思考様式が「マンガ的」と特徴づけられる者である。
    実際,「アイヌとして」のスタンスは,物理への思考停止を以て可能となる。
    そして,この「マンガ的」は,新左翼ムーブメントが 1960年代後半から新たな展開を見せる頃から,始まったものである。


    現前の保護派"アイヌ",利権派"アイヌ" の要素になっているイデオロギーは,新左翼のものと既成左翼のものがあり,実際この二つの混淆である。
    本論考は,このイデオロギーを「革命イデオロギー」と称しておく。
    現前の保護派"アイヌ",利権派"アイヌ" がなぜ現前のようなのかは,「革命イデオロギー」を理解してはじめてわかるものになる。
    本テクスト『革命イデオロギー』は,これを趣旨として設けられるものである。