Up 反同化は「同族」を要する──民族主義へ 作成: 2017-03-05
更新: 2017-03-05


    アイヌ終焉後アイヌ系統者は,<同化>が自分の否応の無い進路になる。
    物には,惰性がある。惰性は外力に抗う。
    アイヌ終焉後アイヌ系統者の場合の<抵抗>は,自分のルーツへの矜恃である。

    自分のルーツへの矜恃は,ひとによって形・度合が違ってくる──「個の多様性」。
    同化していくことは同じであるが,同化を進んで受け入れる者と同化に反発する者の別が現れる。

    同化を進んで受け入れる者は,個人主義をポリシーにしていることになる。
    翻って,同化に反発する者は,個人主義になれない者である。

    個人主義の逆は,同族主義である。
    同化に反発する者は,同族主義を現していく。
    そして,「アイヌ民族」に至る。
    同化に反発する者は,「アイヌ民族」を唱える者になる。


    「アイヌ民族」を唱える者は,唱える<能力>を持つ者である。
    且つ,唱える<場>を持つ者である。
    <能力>と<場>の両方をもつことが,「アイヌ民族」を唱える者の条件である。

    コタン/給与地コタンは,しぜんな<場>である。
    山本多助 (阿寒),貝沢正 (二風谷),野村義一 (白老),荒井源次郎 (旭川近文) は,自分の場をコタンに持てるタイプである。

    <場>を持たない者は,集まって自分たちの<場>を新しくつくる。
    「アイヌ協会」とか「アヌタリアイヌ」とかが,これである。


    彼らは,エリート化・タレント化・特権化する。
    実際,系のダイナミクスとして,こうなる他ない。
    彼らはごく少数であるが,"アイヌ" シーンを背負っていく者になる。
    他の者は,"アイヌ" シーンから消えていくからである。

    併せて,彼らは「アイヌ民族」の対象を失っていく。
    「アイヌ民族」を唱えるが,彼らの「同族」は存在しなくなる。
    彼らの言説を聴いてくれるのは,「同族」ではなく「シャモ」の方である。
      貝沢正「アイヌモシリ,人間の静かな大地への願い」(1991)
    『アイヌわが人生』, 岩波書店, 1993. pp.247-276.
    pp.261,262.
     「開発」というのは自然破壊だからね。ちっともよくない。
    アイヌにすれば。昔は豊かではないけれど精神的な豊かさは持っていたわな。食うことの心配はないだろうし、仲間同士の意識もはっきりとつながっていただろうし。
    ところがこの私有財産制というのを押しつけられて、今のアイヌは変わってきているんでないだろうかな、残念ながら。
    自然保護する、自分の周りをよくしようなんて考え方がなくて、やっぱり、なんちゅうかね、シャモ的な感覚に変わってきた。
    もっと悪いというのは、教育受けてないから教養がない。
    例えば萱野(茂) さんと主張しているダム問題にしたって、理解してもらえるのは (アイヌではなく) むしろシャモのインテリの人でしょう。
    チフサンケ (舟おろし) のお祭りにしたって、二風谷の祭りでなくよその祭りだって言われてる。 二風谷の人が何割かしか出てないんだよ
    どこかやっぱり、表だっていう事に対して反感が地元にある
    昔のアイヌというのは、例えば門別の奥だとか、鵡川(むかわ)の奥あたりでも不幸が出たら、必ず悔みに行くんだよ。 コタンから一族郎党引き連れて、三日ぐらいかかるんだよ。 お祭りがそうだし、お祝いがあったってそうだし。 そういうつきあいだけでも、働く暇がないくらいさ。