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新谷行「アイヌモシリの復活のために」
『増補 アイヌ民族抵抗史』, 三一書房, 1977, pp.275-278.
pp.275-276.
一九七二年六月二十二日、北海道沙流郡平取町二風谷に「アイヌ文化資料館」が開館した。
建坪五十坪、平屋鉄筋コンクリートの小さな資料館だが、アイヌ同胞自身の手による初めての資料館である。
開館式には自民党の代議士や道会議員なども姿を見せていたが、挨拶に立ったウタリ協会の貝沢正理事は、これらの人たちに礼を述べながらも、アイヌ民族に対するこれまでの和人の悪虐非道を批判することを忘れなかった。現在のウタリ協会の複雑な立場を示しているのだが、しかし、いま、アイヌ同胞の手で資料館が建てられたということの意味は大きい。
貝沢正はいう。
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北海道の長い歴史のなかで、大自然との闘いを闘い抜いて生き続けてきたアイヌ。北海道の大地を守り続けてきたのはアイヌだった。
もっとも無智蒙昧で非文明的な民族に支配されて三百年。
アイヌの悲劇はこのことによって起こされた。アイヌの持っていたすべてのものは収奪され、アイヌは抹殺されてしまった。
エカシ達が文字を知り、文明に近づこうとして学校を作ったが、この学校の教育はアイヌに卑屈感を植えつけ、日本人化を押しつけ、無知と貧困の賂印を押し、最底辺に追い込んでしまった。
世界の植民地支配の歴史をあまり知らないが、原住民族に対して日本の支配者のとった支配は、おそらく世界植民史上類例のない悪慮非道ではなかったかと思う。アイヌは『旧土人保護法』という悪法の隠にかくされて、すべてのものを収奪されてしまったのだ。日本史も北海道史も支配者の都合で作られた歴史だ。
アイヌの内面から見た正しい歴史の探究こそ望ましい。敗戦後の教育を受けた若い人々の声が出てきた。"正しいアイヌの歴史を" と。またこのこととあい呼応して、アイヌ民族の生活文化を保護、保存するための資料館を建てたい、と。(中略) アイヌの血がアイヌを呼び起こしたのだ。アイヌの歴史を書き改める基盤ができた。資料館を足場として、若いアイヌが闘いの方向を見極め、これからの正しい生きかたの指標としていくことを期待したい。」
(『近代民衆の記録 5』付月報)
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アイヌ文化資料館が、真にアイヌ民族のものになるかどうか、すべてはアイヌ同胞自身の手にかかっている。これを一部の者の私物にしてはならないし、絶対に和人的な剥製品の展示場、博物館にしてはならない。貝沢がいうように、この資料館を足場にして、若いウタリはアイヌモシリ復興の闘いを開始しなくてはならない。そして、この闘いの視点は、あくまでもアイヌ民族の独立の視点であるべきであろう。そうでなければ、アイヌ民族とアイヌ文化の真の復権ははたされない。
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新谷行「橋根直彦、獄中からのベウタンケ」
『増補 アイヌ民族抵抗史』, 三一書房, 1977, pp.288-298.
pp.288-290.
「ヤイユーカラ・アイヌ民族学会」(自ら行動するアイヌ民族学会) は、アイヌ解放同盟、北方民族研究所による学界糾弾の直後設立されたもので、アイヌ成田得平を会長とし、主として山本多助翁の継承するアイヌ民族の伝統文化を発展させようとするものである。
現在までのところ、山本翁のつぎのようなものを刊行している。
『言葉の霊イタクカシカムイ』(昭和四十八年二月)、
『どっこいアイヌは生きている』(昭和四十八年七月)、
『第一号日本列島一周旧地名追跡調査』(昭和四十八年十一月)、
『第二号日本列島内オノコロ島見聞記』(昭和四十八年十一月)、
『アイヌ語小辞典』(昭和五十一年五月)、
『九州の旧地名と各地方の見聞記』(昭和五十一年五月)
などである。
山本翁のめざしているものは、彼が若いときから樺太その他の地方を歩き、身につけたアイヌのあらゆる伝統文化を消させることのないように、若い者にそれを受け継がせようとするところにあるといっていいだろう。
したがって、その範囲はアイヌ語をはじめとしてユーカラ、各地の地名の由来、それに古典舞踊などきわめて広い。
特にその地名解は、本州の南端九州まで脚をのばし、そこの旧地名にアイヌ語で解決できるものまでも探し求めている。
おそらく、これによって本州の南端までいわばアイヌ、あるいはそれに近い文化圏が古く存在していたことが推測することができるだろう。,
山本多助翁のこうした活動を現在、「ヤイユーカラ・アイヌ民族語会」が充分に生かしきっているかどうかは多少疑問も残るが、アイヌ自身の手によるこうした活動は充分に評価されてよい。
一部の者は、こうした活動を観光的だというが、それは実情をよく見きわめない者のうわすべりな言動にすぎないだろう。
彼等が観光的だというとき、それはおそらく阿寒の観光部落をさしているのだろうが、そう言う前に、先づ第一に観光的なことをやらねば生活できなくしてしまった日本人社会の責任を問わねばならない。
そして第二に、彼等はたとえ観光で生計を立てながらも、その陰では伝統的な舞踊など古典をしっかりと残していっている。
もちろん、ここで私はアイヌを見せ物にする観光がいいのだなどという考えは毛頭ない。
アイヌの復権ということを考えるとき、観光はなんとしても否定されねばならない。
しかし、この問題は性急に解決を求めたら、アイヌ人の一部が本当に無惨な姿で敗退してしまう。
あくまでも復権への長い道程の中でアイヌ人自身が自ら解決してゆかねばならないことだし、日本人もまたアイヌ民族への認識をあらたにして百八十度の意識の転換をもって彼等を支援してゆかねばならないだろう。
ところで、このことに関して一つ気になるのは、二風谷のアイヌ文化資料館である。
この資料館ができるとき、貝沢正が、
「 |
アイヌの歴史を書き改める基盤ができた。資料館を足場として、若いアイヌが闘いの方向を見極め、これからの正しい生きかたの指標としていくことを期待したい」
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と語った。
私はこれに対して、「これを一部の者の私物にしてはならないし、絶対に和人的な剥製品の展示場、博物鰭にしてはならない」と述べた。(本書二七六頁)
それから約五年、一体、貝沢の言明したとおりにことは運んだろうか。
聞くところによると、この資料館の実際の責任者でもある萱野茂が道庁から予算をもらい、金成まつが書き残した大量のユーカラを日本語になおしているという。
アイヌ民族にとって金成まつの仕事を継承することはきわめて大切なことである。
しかし、私はこの萱野の継承の仕方の中に和人社会の中に同化吸収されてゆく一つの危険性を見ないわけにはいかない。
そして、貝沢が言ったような「アイヌの内面から見た正しい歴史の探究」もいつの間に消えてしまったような気がしてならないのである。
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"アイヌ" を美化し,自分を "シャモ" にして "アイヌ" にすり寄る者 (新谷行) は,ご都合主義的に特定個人の "アイヌ" を上げたり下げたりする者になる。
個人の "アイヌ" は生ものであるから,つねにその "シャモ" のお眼鏡に適っているというふうにはいかない。じきに,その "シャモ" に幻滅される。
幻滅されない "アイヌ" は,既に死んでいて,自由に思い入れができる "アイヌ" である。
──違星北斗, 知里真志保, 鳩沢佐美夫,‥‥
山本多助や貝沢正の「シャモ攻撃」は,実際は同化派"アイヌ" に向けられている。
「俺のようになれ!」と言っているのである。
彼らは,独り善がりに,自分を同族の正しい形に定める者である。
しかし,彼らによって「同族」とされた者は,彼らの気に入るようには振る舞わない。
彼らは,この「同族」に幻滅し,そして侮蔑するようになる。
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貝沢正「アイヌモシリ,人間の静かな大地への願い」(1991)
『アイヌわが人生』, 岩波書店, 1993. pp.247-276.
pp.261,262.
「開発」というのは自然破壊だからね。ちっともよくない。
アイヌにすれば。昔は豊かではないけれど精神的な豊かさは持っていたわな。食うことの心配はないだろうし、仲間同士の意識もはっきりとつながっていただろうし。
ところがこの私有財産制というのを押しつけられて、今のアイヌは変わってきているんでないだろうかな、残念ながら。
自然保護する、自分の周りをよくしようなんて考え方がなくて、やっぱり、なんちゅうかね、シャモ的な感覚に変わってきた。
もっと悪いというのは、教育受けてないから教養がない。
例えば萱野(茂) さんと主張しているダム問題にしたって、理解してもらえるのは (アイヌではなく) むしろシャモのインテリの人でしょう。
チフサンケ (舟おろし) のお祭りにしたって、二風谷の祭りでなくよその祭りだって言われてる。
二風谷の人が何割かしか出てないんだよ。
どこかやっぱり、表だっていう事に対して反感が地元にある。
昔のアイヌというのは、例えば門別の奥だとか、鵡川の奥あたりでも不幸が出たら、必ず悔みに行くんだよ。
コタンから一族郎党引き連れて、三日ぐらいかかるんだよ。
お祭りがそうだし、お祝いがあったってそうだし。
そういうつきあいだけでも、働く暇がないくらいさ。
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アイヌ終焉後アイヌ系統者は,いろいろな人間模様,人間の資質を見せてくれる。
山本多助や貝沢正が見せてくれるのは,つぎの思考回路である:
彼らは,"アイヌ" に片思いする "シャモ" と同型である。
そしてこの片思いは,幻滅で終わるものである。
同族は,自分のようでないから,<愚>である。
いまの世代は,幻滅ばかりで,期待できない。
期待できるのは,まだ純粋な若い世代だ。
こうして彼らは,必ず「若い者よ,立て!」を言う者になる。
ちなみに,このタイプの者が力をもって行動を起こせば,毛沢東の文化大革命のようになる。
──若い世代を兵隊にして,現世代を撃つ。
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