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Bird (1880), 邦訳 pp.105-107
[日高の平取において]
女性はすべて、口の上下に幅広く帯状に入墨をするだけでなく、指関節の付け根にも帯状に入墨する。
そして後者は手の甲の凝った模様に続いた後、[手首から] 肘までは腕輪状の入墨になっている。
美しさを損ねるこの処置 [入墨] は五歳の時に始まるが、その被害者にはまだ乳離れしていないような幼女もいる。
私は今朝 [八月二六日] 一人の愛らしく賢そうな少女が入墨されるのを見た。
一人の女が、手にした歯先の鋭い大きな小万 [マキリ] で上唇に数本の水平方向の傷を実にすばやくつけていったあと、とても愛らしい口許までその曲線に沿うような傷をつけた。
そして、わずかの出血が止まらないうちに、囲炉裏の上に釣り下げられた簀に付いた真っ黒の煤を少量、注意深くすりこんだ。
二、三日たつと傷をつけられた唇を樹皮の煎じ汁で洗って模様を固定する。
こうして多くの人が絵具を塗り付けたと見紛うような青い模様になっていく。
昨日 [八月二五日] 二回目の施術を受けた少女の唇はぞっとするほどはれ上がっていた。
炎症を起こしていたのである。
一番新しい被害者 [今朝初めて入墨された少女] は、傷をつけられる間、両手をしっかりと握りしめていたが、泣くようなことはまったくなかった。
両唇の回りの模様は結婚するまで毎年深く広くされていき、腕の腕輪状の模様も同じようにして広げられていく。
男たちはこの習俗が一般化した理由を説明できず、古くからの習俗であり、信仰の一部をなし、入墨のない女は絶対に結婚できないと言う。
ベンリ [ペンリウク] は和人 [日本人の女] が歯を黒く染める習俗 [お歯黒] に当たるものだと漠然と考えているが、これは普通、結婚の後に行われるものだから、その考えは間違っている。
アイヌは少女が五、六歳になる頃から腕の入墨を開始し、肘から下に向かって施していくのである。
近年入墨が禁止されたために、悲嘆にくれ困惑しておりますと口々に言った。
神々の怒りを買うことになるし、女たちは入墨なくしては結婚できないというわけである。
そしてフォン・シ─ ボルト氏にも私にも、この点について日本政府 [開拓使] をとりなしてくださいと嘆願した。
彼らは他のことはともかくこの点だけは無関心ではいられず、「これ [入墨] は私たちの信仰の一部なのです」と何度も繰り返した。
入墨された女性の手
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露出する肌に入れ墨をする。
一般に,これの意味は,<装う>──<裸を隠す>──である。
裸は私的であり,公になるときは装わねばならない。
入れ墨は,シンボリックな装いである。
装いとしての入れ墨のよさは,《じゃまにならず,そして元手がかからない》である。
着物が<勝手のわるいもの>あるいは<得られにくいもの>になっている社会では,シンボリックな着物として入れ墨が用いられるというぐあいになる:
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宮本常一 (1984), 文庫版, pp.19,20.
(文中 [B] が,宮本によるバードの引用)
さて、横浜へ上って、たまたまギューリック博士が来ていたので、それについて上陸するのですが、彼女がはじめて日本人に接触した印象の所を読んでみますと、
[B] |
彼らはみな単衣の袖のゆったりした紺の短い木綿着をまとい、腰のところは帯で締めていない。
草履をはいているが、親指と他の指との間に紐を通してある。
頭のかぶりものといえば、青い木綿の束 (手拭い) を額のまわりに結んでいるだけである。
その一枚の着物も、ほんの申しわけにすぎない着物で、やせ凹んだ胸と、やせた手足の筋肉をあらわに見せている。
皮膚はとても黄色で、べったりと怪獣の入れ墨をしている者が多い。
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と、これがはじめて接した日本人の姿だったのです。
‥‥
当時の海で働いていた人たちは、殆んどクリカラモンモンの入れ墨をしていたということです。
近頃では入れ墨をする人は非常に少なくなりましたが、これはなかなか魅力のあったものらしくて、明治の終り頃にドイツの王子が日本にやって来た時に、入れ墨をみてすっかり喜んでしまって、自分も入れ墨をして帰ったという話がありました。
意外に痛かったので驚いたということです。
それが風俗壊乱するものであるとして、明治になって止められて、消えていってしまいますが、この頃までは江戸を中心にして極めて当り前のことであったらしいことがわかります。
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同上, pp.49,50.
それから、
[B] |
青い木綿の手拭いを頭のまわりにしばりつけていた。
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と車夫の服装のことが書かれていますが、かつては手拭いはみな紺染めだったようで、理由は簡単なことで汚れが目立たないためなのです。
次に、
[B] |
上着は、いつもひらひらと後ろに流れ、龍や魚が念入りに入れ墨されている背中や胸をあらわに見せていた。
入れ墨は最近禁止されたのであるが、装飾として好まれたばかりでなく、破れやすい着物の代用品でもあった。
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これはたいへんにおもしろいと思うのですが、入れ墨は西日本には非常に少ないのです。関東に多いのです。
つまり夏の服装が、関東と関西では違っていたということで、関東では裸が多かったという記事がしきりに出てくるのです。
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同上, pp.60,61
それから先ほど話した着物の話が出てきますので読んでおきますと、
[B] |
労働者にとって和服が不便であるというのが一つの原因となって、彼らは着物を着ないという一般的習慣ができたのであろう。
和服は歩いている時でさえも非常な邪魔になるから、たいていの歩行者は、着物の裾の縁の真ん中をつまみ、帯の下にそれを端折って腰にまとうのである。
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同上, pp.82,83
いったい日本ではどのくらい裸があったのだろうかというと、話し合ったことがあったのですが、ペリーの『日本遠征記』〔『ペルリ提督日本遠征記』〕を読んでいると神奈川のあたりで船に乗ってる人がみなふんどし一つで裸だったと書いてあるし、『日本その日その日』の中で E・S・モースが日本人はみな裸だといってる。
これは着物をできるだけ汚さないようにしようという考えから、働いている時には汗が出るので裸になったのだと思います。
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つぎは 1914年の,<アイヌの入れ墨>の状況:
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砂沢クラ (1983), pp.111,112.
観光客には、口の周りにスミを塗り、口を染め (入れ塁) ているように見せていましたが、近文では、私の二つ三つ年上の人が唇の上をちょっと染めていたぐらいで私より年下の人はだれも染めていませんでした。
日高の人たちはずっと後まで染めていたようで,日高に嫁に行ったシトゥンパタックアイヌの二女アサさんが大きく口を染めて里帰りしてきて驚きました。
アサさんは,私たちに「日高に嫁に来ないか」と誘いましたが、「いやだ。口を染めるようなところへはいかない」と口をそろえて断りました。
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- 引用文献
- 菅江真澄 (1791) :『蝦夷迺天布利』
- 『菅江真澄集 第4』(秋田叢書), 秋田叢書刊行会, 1932, pp.493-586.
- 村上島之允 (1800) :『蝦夷島奇観』
- 佐々木利和, 谷沢尚一 [注記,解説]『蝦夷島奇観』, 雄峰社, 1982
- Bird, Isabella (1880) : Unbeaten Tracks in Japan; An Account of Travels in the Interia, Including Visits in the Aborigines of Yezo and the Shrines of Nikko and Ise
- Project Gutenberg : http://www.gutenberg.org/ebooks/2184
- 金坂清則 訳注 『完訳 日本奥地紀行3 (北海道・アイヌの世界)』, 平凡社, 2012.
- 砂沢クラ (1983) :『ク スクップ オルシペ 私の一代の話』, 北海道新聞社, 1983
- 宮本常一 (1984) :「イザベラ・バードの旅──『日本奥地紀行』」
- 『古川古松軒 イザベラ・バード』(旅人たちの歴史 3), 未來社, 1984.
- 『イザベラ・バードの旅──『日本奥地紀行』を読む』, 講談社学術文庫, 2014.
- 参考Webサイト
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