コタンの長クラスが所有する宝物の量は,つぎの絵図から窺える:
村上島之允 (1800), p.57
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同上, pp.35,36
家には祖先のじいさんやエカシが毛皮と交換してきた宝物がたくさんありました。
ウルシ塗りのテクシパッチ (四つの持ち手が付いた酒入れ)、トゥキ (神事用盃=さかずき)、イコロ (宝刀) やエムシ (刀)、イクパスイ (神事用ハシ) を納めたカパラシントコ (六角または八角の塗り物のオケ)、刀のツパを入れたスポツプ (塗り物の箱) などが、イヨイキリ (神棚) の内にも外に,も並んでいました。
家の北側にケヤ (差しかけの屋根) をおろして作った小部屋の棚には、タマサイ (首飾り)、ニンカリ (耳輪) などの女の宝物、金銀で刺しゅうをしたエカシや父の着物がしまってありましたが、これも物々交換で持ち帰ったものでした。
宝物の中に、大昔、アトゥイヤコタンから持って来たという古い布がありました。絹糸の部分はすり切れ、金糸だけがすっかり茶色になって残っていました。ユーカラに歌われているコンカニコソンテ (金の着物) そっくりでした。
あの布が残っていたら、いまの学問で調べると、アイヌがアトゥイヤコタンまで行っていたことがはっきりとわかると思います。残念でなりません。
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つぎのような例もある:
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松浦武四郎 (1870), p.189
シユムンコツ〔紫雲古津〕村 (東岸、人家三十餘軒)
本名シュンコツにして、西地面の義也。畑多く有。
夕方乙女 (イヨラツケ) 家に宿す。
是召連しトレアンの兄也。
家の正面、行器八十餘、太刀・短刀百餘振、鎗五本を餝(飾)り、余が来るを待もふけて挂甲二領を餝りたり。
何れも古製の物なれども、余此道に暗らきが故、目の及ざるぞ遺恨なり。
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引用文献
- 村上島之允 (1800) :『蝦夷島奇観』
- 佐々木利和, 谷沢尚一 [注記,解説]『蝦夷島奇観』, 雄峰社, 1982
- 砂沢クラ, 『ク スクップ オルシペ 私の一代の話』, 北海道新聞社, 1983
- 松浦武四郎 (1870) :『東蝦夷日誌』
- 吉田常吉[編]『蝦夷日誌 上 東蝦夷日誌』, 時事通信社, 1984.
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