Up 刀剣 作成: 2019-03-14
更新: 2019-03-14


      河野常吉 (1914), pp.98,99
    利刀を失ひ鈍刀を求む
    以上述べたる如く古代に於て蝦夷に入りたる刀剣は、主もに彼等よりも遙に優等なる人種の使用したる古物なれば「腐っても鯛」の諺に洩れず其性合も良かりしが、松前氏の権力確定し蝦夷を支配するに及びては、利器をアイヌに所持せしむるの甚だ不得策なるを以て、刃金 (鋼鉄) の入りたる刃物は一切之を渡すことを禁じたり。
    是に於てアイヌは一方に鈍刀を得ると共に一方には漸次先に得たる利刀を失ひ、終に全く鈍刀のみを所持することゝなり以て今日に至れり。
    彼等が漸次利刀を失ひし理由は
     (一) 交易の為め誤魔化されて再び和人に持ち去られたる事、
     (二) 反乱其他種々の理由により償として和人に取られたる事
     (三) 彼等は昔時宝物を人の知らざる岩穴、土中等に秘蔵する習慣ありて其者死するときは秘蔵物も亦其儘になりて世に出でざるもの少なからざる事
    等にあり。
    而して之に代りて彼等の手に入りしものは概ね蝦夷向きとして殊に造りし鈍刀に過ぎず、蝦夷拾遣に日く。
      今エムシとて新に作り蝦夷に遣すは松前及秋田淳代等の(あら)鍛冶が作りたる鈍鍛ひなり。
    蝦夷其鈍きことを詳に知れども夷の風武器を重宝とし之を持たざる者は一家の主と成ること能はざるにより之を求む。
    往古強暴なりしアイヌも屢々反乱して其度毎に打破られ、次第に圧制せられて終に再び反抗するの勇気を失ひたれば刀剣は之を武器として使用するの必要なく、唯装飾として又家宝として之を要するのみとなれり。
    乃ち刀身の利鈍の如きは之を問ふの必要なきに至れり。
    現況
    アイヌは今日に於ても刀剣を貴重し、室内には之を掛けて誇りとし熊祭等の場合は木幣垣に之を掛けて神聖を示し且多くの儀式の場合男子は之を身に掛けて装飾とす。
    八束髯(やつかひげ)おひたる壮男がシヤパウンベを頂き陣羽織を著し幅広き紐を肩に掛けて太刀を脇につりたる様は威容堂々たりと称すベし。
    されど刀身は悉く錆びたる鈍物、甚だしきは木片を以て代用するものあり、(つば)も亦概ね蝦夷向きとして造りたる粗製品なり。
    鞘及柄は和人製のものと自製のものとありて、其自製に係るものは種々の彫刻を施し数処を桜の皮にて巻けり。
    普通刀をエモシ、イムシ、エムシなど称す。
    又其長きものをタンネツプと云ひ短きものをエモシポと云ふものあり。


    引用文献
    • 河野常吉 (1914) :「蝦夷の刀剣」, 考古学雑誌, 第4巻第5号, 1914/1.
        『河野常吉著作集 I 考古学・民族誌編』, 北海道出版企画センター, 1974. pp.93-100.