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Siebold, (1881), 邦訳 pp.39,40
身体の手入れに関しては、アイヌほどこのことに時間を費やさない民族は、まずいないだろう、と私は考えるようになってきた。
‥‥‥
全身を洗うことは、たとえば漁携を行なう時や、川を歩いて渡る時のような機会にしか起こらないらしいのである。
自分の身体を洗うことによって、きれいにしようとする心配りを、彼らは持ち合わぜていない。
その上、まったく同じように、衣服や道具をきれいにすることも必要がない、と考えている。
このため、煙で真っ黒になっているとか、他の何らかの理由で汚くなっていることが多く、たいていは見かけがとても宜しくない。
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Bird (1880), 邦訳 p.133.
人々は礼を失さないきちんとした身なりをしてはいるが、清潔なわけではない。
女性は日に一回しか手を洗わないし、身体を洗うという観念はない。
衣類を洗うこともなく、昼も夜も同じものを着ている。
そのふさふさした黒髪がどうなっているのかと思うと心配になる。
彼らはわが国の大衆がとても不潔なのと同じだと言ってよい。
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「不潔」とは,自分の「清潔」の観念を何ものかに適用したときの「不潔」である。
その「不潔」をしぜんとしている者にとって,その「不潔」は不潔ではない。
アイヌの「不潔」は,バードが「わが国の大衆がとても不潔なのと同じ」と言っているように,当時の普通である。
実際,バードは北海道入りする前から民衆の「不潔」を記している:
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宮本常一 (1984), 文庫版 pp.84,85.
(文中 [B] が,宮本による Bird (1880) の引用)
それから小佐越というところで、当時の山中の村の貧しかったことがでてきます。
[B] |
ここはたいそう貧しいところで、みじめな家屋があり、子どもたちはとても汚く、ひどい皮膚病にかかっていた。
女たちは顔色もすぐれず、酷い労働と焚火のひどい煙のために顔もゆがんで全く醜くなっていた。
その姿は彫像そのもののように見えた。
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それほど汚れていたのです。それは風呂へも入らないということもあったのです。
同じようなことが栃木県の横川というところを通るときに出てきます。
[B] |
五十里から横川まで、美しい景色の中を進んで行った。
そして横川の街路の中で昼食をとった。
茶屋では無数の蚤が出てくるので、それを避けたかったからである。
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何度もいうように、日本にはすごいほど蚤がいて、実は茶屋だけではなくて、地面の上にもいたらしいのです。
日本の国土全体の上に、かつて充満していたようなのです。
[B] |
すると、私のまわりに村の人たちのほとんど全部が集ってきた。‥‥
群集は言いようもないほど不潔でむさくるしかった。
ここに群がる子どもたちは、きびしい労働の運命をうけついで世に生まれ、親たちと同じように、虫に喰われ、税金のために貧窮の生活を送るであろう。
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同上, pp.87,88
[B] |
この人たちはリンネル製品を着ない。
彼らはめったに着物を洗濯することはなく、着物がどうやらもつまで、夜となく昼となく同じものをいつも着ている。
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これはこのとおりだったと思うのです。
これは先ほどの裸でいるということと関係があって、着物をできるだけ汚さないようにする。
それは洗濯するといたんで早く破れるからで、着物の補給がつかなくなるのです。
それでもだいたい一年に一枚くらいの割合で着破ったと考えられるのです。
その着物というのは、この山中だと麻か藤布が多かったと思います。
すると家族が五人いるとして、五人分の麻を作るか、あるいは山へ行って藤をとってきて、その繊維をあく出しして細かくさいて紡いで糸にし、それを機にかけて織る、ということになると、着物一人分の一反を織るのにだいたい一ヵ月かかるとみなければならない。
五人分なら五カ月で、それを、働いている上にそれだけのことをしなければならないのです。
着物を買えば簡単ですが、買わない生活をしてとなると非常に自給がむずかしかったわけです。
これが生糸になると、まゆを煮さえすれば繊維の長いのが続いているから、うんと能率も上ってくることになります。
植物の皮の繊維をとって着物を織ることがどのくらい苦労の多いものであったか、そして多くの着物を補給することができなかったかがわかるのです。
汚ない生活をせざるを得なかったということは、こういうことにあると思うのです。
『おあん物語』の中のおあん様がまだ妙齢の娘だった頃に、着物一枚しか持っていなかったというのです。
お父さんは大名に仕えて高三〇〇石というのですから、当時武士の中でも中流以上の生活をしていた人だとみて良いのですが、それでそのくらいの状態だったのです。
そのくらい衣服というのは得られにくいものだったのです。
今『平将門』をNHKテレビでやっているけれど〔講義の行われた一九七六年に放映中の平将門を主人公とした大河ドラマ『風と雲と虹と』か〕、あんなきれいな着物を着ていたなんてとんでもないことで、実際に当時の服装で出て来たら、これはたいへんなものだったろうと思うのです。
それでは綿がなかったのかというと、あったのですが非常に貴重なものだったのです。
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同上, p.89
[B] |
髪には油や香油がむやみに塗りこまれており、この地方では髪を整えるのは週に一回か、あるいはそれより少ない場合が多い。
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女の人たちも髪を梳くということが非常に少なかったのですね。
[B] |
特に子どもたちには、蚤やしらみがたかっている。
皮膚にただれや腫物ができるのは、そのため摩みができて掻くからである。
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同上, pp.176,177
それから、日本人に病気が多いというのがでてきますが、
[B] |
その大部分の病気は、着物と身体を清潔にしていたら発生しなかったであろう。
石鹸がないこと、着物をあまり洗濯しないこと、肌着のリンネルがないことが、いろいろな皮膚病の原因となる。
虫に咬まれたり刺されたりして、それがますますひどくなる。
この土地の子どもは、半数近〈が、しらくも頭になっている。
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これは前にも書かれていたので、決して一ヵ所だけのことではなく、日本全体の当時の衛生状態だったとみてよいと思うのです。
よく、日本人はきれい好きである、風呂好きであると言いますが、それは、江戸、大阪や、京都などの町にみられた現象であって、村へ入ってみると風呂のない所が非常に多かったのです。
特に東北地方に風呂が普及し始めるのは、今度の戦争がすんでからなのです。
風目釜は主に広島県で作っているのですが、戦後それが東北地方へすごい勢いで売れていって、ずっと全国に風呂が設けられるようになるのです。
私が調査旅行に歩いていた戦前は、すごく垢をためた子が多かったし、特に洟をたらし、それを袖で拭くものですから袖口のぴかぴか光った服を着てる子が多かったのです。
よほどきれいな女の子でも耳の後を見ると垢がたまっていたし、爪は真黒だった。
それが今は、そういうのを一人もみかけなくなった。
ですから日本人がきれい好きだというのは、現在の状態でものを言っているのであって、もとはそうではなかったということです。
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備考 : 繊維・織物の歴史
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アランベルWebサイトより:
日本では約5000年前の縄文時代から、一般の衣料は麻であった。麻の織物だけの期間は長く、約3200年も続いた。
日本で絹利用が始まったのは2世紀の初頭、つまり、卑弥呼の時代の頃であったらしい。そして日本人が麻と絹の衣料で過ごす時代は、16世紀末の豊臣秀吉の時代に綿が知られるようになるまで長く続いた。
日本の綿作りは、17世紀後半の徳川時代の中期から20世紀初頭の大正時代にかけて盛んになり、それと共に綿織物が普及した。
一方、羊毛の本格的生産は、日本では遂に行われることはなく、原料羊毛の加工工業として発展するほかなかった。
綿工連Webサイトより:
織物は衣・食・住の中の極めて重要な生活物資であり、古くからその生産が行われていますが、当初は麻や絹が大部分であり木綿が我が国で生産されるようになったのは、永正年間(西暦1504年)からのようであります。同年代に三河地方でこれを作り、奈良の市場に出したといわれます。その後、天文年間(1532年)には薩摩の職工がさつま木綿を作りました。この頃から各地で棉の栽培が盛んとなり、木綿が生産されるようになったと伝えられています。
農家の婦女子が自家用に供するため、当時の綿織物は、自作の綿花から操綿・紡糸・機織をしたようですが、生産量の増加に伴い農家を回る飛脚が取次ぎをするようになり、次第に商品化していきました。飛脚の取次ぎは次第に専業化して買継が発生し、買継が強力になるにしたがって織元に発展し、農家の婦女子に糸や織機を与えて賃織をさせるようになりました。当時の織機は居座式といい極めて原始的な手機織機でしたが、その後高機が使用されるようになり、徳川末期から明治初年にかけて次第に数台から数十台の織機を一個所に持ち寄り、工場形態を取るものが多くなってきました。
近代的な工業として綿織物業が勃興したのは、明治23年の豊田佐吉の人力織機、同30年木製動力織機の発明に起因するということができます。これより先、綿糸紡績については、慶応3年に薩摩の島津斉彬が鹿児島紡績所を興して以来、各地に洋式の紡績工場が開設され、良質の綿糸が供給されるようになりましたが、豊田佐吉の動力織機の発明により、我が国綿織物業の発展の基盤が確立されました。即ち、明治初年においては綿織物は多く輸入に頼っていたのですが、明治 27〜28年頃より生産は急ピッチで上昇し、輸出も次第に増加しました。その結果、綿織物の輸入は明治41年を最高に急速に減少を示しました。
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- 引用・ 参考文献
- Siebold, Heinrich (1881) : Ethnologische Studien über die Aino auf der Insel Yesso
- Zeitschrift für Ethnologie / Organ der Berliner Gesellschaft für Anthropologie, Ethnologie und Urgeschichte, Suppl., P. Parey 1881.
- 原田信男他 訳注『小シーボルト蝦夷見聞記』(東洋文庫597), 平凡社, 1996
- Bird, Isabella (1880) : Unbeaten Tracks in Japan; An Account of Travels in the Interia, Including Visits in the Aborigines of Yezo and the Shrines of Nikko and Ise
- Project Gutenberg : http://www.gutenberg.org/ebooks/2184
- 金坂清則 訳注 『完訳 日本奥地紀行3 (北海道・アイヌの世界)』, 平凡社, 2012.
- 宮本常一 (1984) :「イザベラ・バードの旅──『日本奥地紀行』」
- 『古川古松軒 イザベラ・バード』(旅人たちの歴史 3), 未來社, 1984.
- 『イザベラ・バードの旅──『日本奥地紀行』を読む』, 講談社学術文庫, 2014.
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