Up アイヌの<至上>は,酒 作成: 2016-12-23
更新: 2016-12-23


    アイヌにとっての酒の意味は,きちんと考えられたことがない。
    きちんと考えられたことがないのは,「酒の意味は重要」と考える者がこれまで出て来なかったということである。

    「酒の意味は重要」と考える者がこれまで出て来なかったのは,どうしてか。
    酒をネガティブに考えることを,<正しい>にしたからである。

     Batchelor, John (1854-1944)
     Ainu Life And Lore ─ Echoes of A Departing Race. 1927
     小松哲郎 訳『アイヌの暮らしと伝承──よみがえる木霊』,北海道出版企画センター, 1999.
     
    p.15
    だが、時代の移り変わりは、この人びとにとってまことに無常なものである。
    人びとは何時もつらくなるまで働き、時には明日の食事をどうやって手に入れるかと考えながら暮らしている。
    人びとの多くはその日暮らしに追われているのである。
    とはいってもこの人たちの暮らしは、東京、大阪、函館、札幌のような都市部に住んでいる貧しい和人たちの暮らしと較べてみると、決してそんなにひどいものとは思われない。
    この地の人びとにしても、暮らして行くだけであればそんなにまで苦労は要らないことをよく知っている。
    暮らしの妨げとなっている最大の敵は過度の飲酒なのである。
    飲酒の習慣さえ無くせば、人びとはすぐにでも幸せに満ちた裕福な生活を送ることが出来るのであるのだが。

     違星北斗 (1901-1929)
     『違星北斗遺稿 コタン』, 草風館, 1995.
     
    あゝアイヌはやっぱり恥しい民族だ 酒にうつつをぬかす其の態
    泥酔のアイヌを見れば我ながら 義憤も消えて憎しみの湧く
    山中のどんな淋しいコタンにも 酒の空瓶たんと見出した


    アイヌにとっての酒の意味は,「アイヌの<至上>は,酒」である。
    即ち,つぎの命題が立つ:
      《「アイヌ文化」は,「<至上>は,酒」を含意する》

    「アイヌ学者」には,このとらえはできない。
    彼らは,「アイヌ差別」のことばにおどおどする者であるから,「アイヌ」を素直に見ることができない。

    「アイヌ」を素直に見るとき,つぎのように「アイヌの<至上>は,酒」が見えてくる:

     Bird, Isabella (1831-1904)
     Unbeaten Tracks in Japan. 1880
     金坂清則 訳注 『完訳 日本奥地紀行3 (北海道・アイヌの世界)』, 平凡社, 2012.
     
    p.88
    どの家にも低い壇[宝壇、イヨイキ] があり、多少の骨董品がのっていたが、これらを別とすると、生活に本当に必要なものしかなかった。
    毎年売ったり他のものと物々交換する毛皮類によって、暮らしに潤いを与えるものがもっとあってよさそうなものなのに、得たものはすべて〈酒〉に消えてしまうのである。

    p.90
     この晩[八月二五日(二日目)の晩] もその前日の晩[一日目の晩] と同じように過ごしたが、平取(ビラトリ)には〈酒〉がなくなってしまっており、「神に酒を捧げて飲むこと」が叶わず、囲炉裏[アベオイ] にも削りかけがついた棒[イナウ] にも酒を捧げずにすまさねばならなかったために、これら未開の人々の心は悲しみに沈んでいた。

    p.126
     彼ら[アイヌ] が行う犠牲を捧げる行為は、雀にいくぶん似た無益な烏[チカプ] の死骸を、皮をはしだ何本もの棒[イナウ] の一本の傍らに置き、腐乱するまで放置しておくことだけである。
    そして、主たる行為は「神のために[酒を]飲むこと」なので、酩酊と宗教儀式とが不可分に結びつくことになり,アイヌにとっては、〈酒〉を飲むほどに信仰が深く、神々の喜びも大きいということになる。 神々を喜ばせる価値を十分にもつものは〈酒〉以外には何もないようである。 火[の神]と皮をはいだ棒[イナウ]への献酒が省かれることは決してなく、〈酒〉を盛った杯[トゥキ] を手前にゆらせながらそれを行う。

    pp.132,133
     彼らはある種の木の根から一種のアルコール飲料を作るほか、自分たちが栽培する雑穀や日本人[和人] が栽培する米からも酒を作る。
    しかし、好むのは日本の〈酒〉[清酒] だけである。
    それで、稼ぎのすべてをこれに費やし、ものすごい量を飲む。
    これは彼らが知る、あるいは考えつくことのできる最高によいものとなっている。
    泥酔することがこの哀れな未開の人間があこがれる最高の幸福になっており、彼らからすると、この状態が「神々のために飲む」という作り話の下で正当化されるのである。

    pp.141,142
    門別は強風が吹きつける場所に当たり、アイヌと和人のぼろ家が二七戸寄り集まるこの上なく惨めなところだった。 ここでは今、[鰊を獲って] 魚油を作ったり海藻[昆布] を採る短期の仕事の最盛期で、余所(よそ)からやってきた多数のアイヌと和人が雇われている。 しかし、波が高くて舟を出せないために、大酒を飲んで酔い潰れていた。 至る所に〈酒〉の匂いがあふれ、酔っ払いの男たちが千鳥足でうろついたり、地面に大の字になって倒れていた。 酔いが覚めるまで、犬のように寝転んでいるのである。 アイヌの女たちは酔っ払った夫を家に連れ戻そうと無駄骨を折っていた。
    ‥‥‥
    戸長から聞いた話だと、アイヌは和人の四、五倍飲んでも千鳥足にはならないという。 とすると、この地では〈酒〉は[英国の] カップ一杯分が8ペンス[18銭6厘] もするから、千鳥足になっているアイヌは6、7シリング[1円68銭〜1円96銭]もの金を〈酒〉に費やしてしまったことになる!

    特にバードのつぎの捉えは,「正当化」を言い切っているところがよい:
     「 泥酔することがこの哀れな未開の人間があこがれる最高の幸福になっており、彼らからすると、この状態が「神々のために飲む」という作り話の下で正当化されるのである。」
    即ち,《泥酔することが最高の幸福になる》は,これだけで成立するものである。
    《泥酔することが最高の幸福になる》は,<ヒト>の枠も外れるかなり普遍性のある命題だと考えるべきである。

    バチェラーの
     「 飲酒の習慣さえ無くせば、人びとはすぐにでも幸せに満ちた裕福な生活を送ることが出来るのである」
    の言は,彼が己の文化の価値観に囚われていることを示すに過ぎない。
    人類学の立場では,「<至上>は,酒」というあり方の「裕福な生活」を,考えられるのでなければならないわけである。