Up 疱瘡 作成: 2018-11-17
更新: 2018-12-07


      松田伝十郎 (1799), pp.98,99
    一、二月上旬より疱瘡流行して場所場所騒動す。
    其起りは松前家足軽壹人、膃肭臍テバ舟の事に付ヲシヤマンベ (長萬部) より夷人壹人召連ウス 地名 に来り、夷家に止宿す。 此家は三人暮しにて、いづれも老人なり。 然る處ヲシヤマンベより召連たる夷人疱瘡を煩ひ、家内のもの騒立、乙名をも訴出るゆへ、病人を早々ヲシヤマンベえさし戻し、両三日過其家のもの一時に右病症のよし。
    夷人ども騒動におよび、番人を附置介抱手當等手を盡すといへども、初熱疱瘡發せるに死するゆへ、種々心配し、力の及ぶだけ世話すれども、甲斐もなく、歎ケ敷事どもなり。
    夷人の風儀にて、其家を焼拂へば一同念も晴れ病も失せるよしにて、右家を焼拂ひたるに、十日程も立、右焼拂ひたる兩隣家より一時に疱瘡發し、村中騒立、うろたへ、残らず山中へ逃去り、諸處へ散亂せしが、往先々にて(わつらゐ)付、直に其所に倒れ死す。 誠に歎ケ敷あり様なり。
    仁三郎自身こゝかしことはせ廻るといへども、大勢の事なれば中々行届かず、中には熱におかされ、弓、矢或は庖丁等を持て狂ひ歩き、番人等もあきれはて、うろたへるのみにて、寝食をも安すんぜず。
    ウス場所人別男女貳百五十人餘の内、四十人餘死亡におよびたり。
    右にて防とめ、病人もなく穏になりたれども、追々御役人通行ありて、繼立人足夷壹人も居合せず、おさし支へ、其段は兼て箱館へ注進いたし置といへども、奥地行のもの追々来着にて心配の處、二月中旬にアブタ場所に疱瘡流行のよし訴出、夷人騒立、同所は人別男女五百人餘にて大場所なり。
    乙名夷はじめ夷人ども一同申立るは、疱瘡流行しては一同命に抅る間逃去る段申出、人命にかゝわることゆへ其意にまかせたりしに、一日の中に殘(ら)ず散亂す。
    いまだ雪ふかく、山中に入りても食料にさし支、餓死におよびては濟ざることなれば、米、煙草少々宛持たせ遣し、猶通詞熊次郎に尋る處、當所より一里半ほど山にいり大沼あり、此處へ立退けば小魚を取食ひ凌ぐベく、さすれば気遣なき旨申聞るゆへ、其意にまかせ、アブタの方にてはコザクラ 人名 と云夷人一戸にして煩止る。
    此もの七人暮しの處、家内残らず煩ひ、五歳ばかりにも成女子壹人助命し、あとは皆死亡したり。
    夫より道法十五里ほど隔り、ホロペツ 地名 と云所に右病症出来して、夷人ども散亂のよし届来る。
    夫より同所へ相越し、それぞれ手配申付、残らず立退せければ、此所にも夷家一戸にて兩入煩ひ静になり、此所にて止り、奥地へは流行せず。
    此疱瘡西蝦夷地へぬけ、一圓に流行せしよし、西地はいまだ松前家進退にて、手當方も行届(か)ず、奥地アツケシ 地名 ネモロ 地名 邊へ夷人大勢散亂せし由噂す。
    其後西地一圓上地になり、仁三郎彼地へ相こす(みぎり)見聞する處、其節の疱瘡にて三ヶ村退轉す。
    其あとあり。
    其外場所々々にて死亡のものおふ(多)く、東地へ離散のもの彼地に止り歸村なきよし支配人、番人等はなしなり。
    扨蝦夷地にては、疱瘡病夷人の一大事にして、右病をうくるもの十人が十人助(か)るものなく、誠に騒動の基なり。
    前にも記せるごとく、親たるもの煩付ば其子逃去り、子たるもの病つけば親逃去り、夫煩ひ付ば妻逃さり、妻煩付ば夫逃去りぬるとと、是は此地の風俗にして、俄に利害申諭したりとも中々止がたく、右の通り散亂するゆへ、隣場所にては是を嫌ふことゆへ、乙名ども訴出、其場所詰合よりきびしく掛合ありて、筆論のみにして益なし。
    村境へ番人を出し置で夷人の往来を留め、他村へ移らせざる様肝要となし、逃去るもの、男女とも銘々面に鍋墨を塗り山中へ隠れ居れば其病を遁る事此國の風と見へ、取扱てこれを知なり。
    相士元十郎ことはヤムクシナイ (山越内) 詰にて相越す。
    仁三郎壹人にて持場中流行の風邪または外病にて臥居る事のあれば、疱瘡と心得騒立ることゆへ、其家へ参り、病症推察して、乙名どもに申諭し、騒ぐを鎮め、アブタに来るとエトモより呼に参り、エトモへ行ばウスより呼に参り、ウスに来ればモロランより迎にまゐり、モロランに行ば、ホロベツよりよびに参り、持場中往返し、頗る流行、醫者のごとく唯病症を見て申さとすのみにて夷人氣うけよく、尤丸薬などは所持すれども、御手入初年のことゆへいまだ和人の風儀も呑込(ま)ず、容易にあたへがたく、三月中旬にして右病の沙汰もなく穏になりたり。


      高倉新一郎 (1969), p.811 (松浦武四郎『近世蝦夷人物誌』の補註)
    安政二年箱館奉行が蝦夷地を管轄するや折から天然痘が流行し、蝦夷は悉くこれをおそれて山に逃げ込み、海岸に労力が不足したので、安政四年箱館奉行村垣範正は江戸の医桑田立斎外数名の医師を派し、翌年に一亘って蝦夷に種痘を施した結果、さしもの流行を見た疱瘡は終熄した。
    わが国で最初の強制種痘である。


      砂沢クラ (1983), pp.32,33
     川村の家はほうそう(天然痘) の神さまにも守られていたそうです。
    昔、ビッシレフチというおばあさんがほうそうで死ぬ時「これからは、私たちの村に悪い病気がはやりそうになったら、村の上をトエッ、トエッと鳴きながら飛ぶ。そうしたら、何か野菜を焼きなさい。その煙が立ったら、悪い病気の通る道を曲げてあげる」と言い残しました。
     ほうそうはカムイシエエ (神の病) と言われて恐れられた病気で、昔は、一村全部が死に絶えるということがたびたびあったそうです。
     「川村の子孫は、村の上を大きな鳥がトエッ、トエッと鳴いて飛んだ時には野菜を焼き、ビッシレフチをおがんだので、ひとりもほうそうにかからなかった。そのうちウエボソ (種痘) で、みな、死ななくなった」と、エカシ [川村モノクテ] はいつも話していました。
     小きい時、私たちはほうそうの予防接種のことをウエボソ (植えぼうそう) と言っていました。
       ウエボソ
    安政四年 (一八五七年)、箱館奉行が桑田立斎と深瀬洋春の二医師を東蝦夷(えぞ)地、西蝦夷地に派遣、アイヌ、和人の別なく巡回種痘を行う。 翌五年には、斜里、北蝦夷、千島でも実施。 日本初の巡回種痘とされている。



  • 引用文献
    • 松田伝十郎 (1799) :『北夷談』
      • 高倉新一郎編『日本庶民生活史料集成 第4巻 探検・紀行・地誌 北辺篇』, 三一書房, 1969. pp.77-175
    • 高倉新一郎 (1969) : 高倉新一郎編『日本庶民生活史料集成 第4巻 探検・紀行・地誌 北辺篇』, 三一書房, 1969.
    • 砂沢クラ, 『ク スクップ オルシペ 私の一代の話』, 北海道新聞社, 1983