Up 和人文化に対するアイヌの憧れ : 『夷諺俗話』から 作成: 2019-02-06
更新: 2019-02-06


      串原正峯 (1793), p.489
    すでに此度宗谷へ行の道中にて、テシヲと云場所より人足に出たる夷、年頃は二十二、三歳にも見へたるか、少しく日本語を知得たるもの故、予も夷語を餘程彼に習請たり。
    又文字もイロハを片假名にて少しは覺居る故に、かれか姓名と在所の名とを望み書せぬるに、片かなにて(したため)見せたり。
    感ずるにたへたる故、予が持合せたる紙と筆を少しあたへぬれば、大に悦ぴ、何卒手本を認くれよといふゆへ、望に任せ認遣したり。
    テシオのシカラカンデといふ夷なり。
    かれは算盤をも少しく覺、九九の聲なども覺へ居るなり。
    右テシヲより宗谷迠四日路、夫より宗谷に十日(ばかり)も滞留してその間予に手跡を習ひたりしか、左程久敷居る事もならす、名残おしけにテシヲに歸りたり。
    夫より秋になりて、宗谷より歸る道中の節、テシヲ泊にて人足不足故一日逗留せし故、彼か事を尋し所、
    此節不快にてしはらく打臥しあるよし當所番人申し聞たる故、予か方より筆一本と半紙貳帖もたせ遣しけれは、大に悦び、
    何とそ押ても後程罷出面會いたし度旨申越たれとも、氣分兎角すくれす、夫故彼か妻を運上屋迄差越、予か所へ沼菱を進物として差越、
    イロハ四十七文字を清書し、ラムウイノオクのオの字をヲの字に認、心付たるや、
    ケ様に箱けいをして、脇へオの字を認直し、其外予か名前テシオの乙名 乙名とは其場所の長にて名主と云がごとし の名前に認め越し見せたり。
    精を出したると見へ、纔かの中に甚見事に書覺へたり。
    また宗谷會所働夷の内テケバセといふへカチ ヘカチとは童と云事なり 年十二、三歳に成か、是も手本を望ゆへ認め遣したるに、至極呑込能、いろはを書覺へたり。
    此テケバセ、子心に「ニシパ」ニシパと云は侍と云事 の風俗をうらやみて、自刀脇差の眞似に、竹と草の莖にて大小を(こしらえ)(つば)は薄き板にて作り、是を差悦びゐたりし()、アサマといふ是も會所にて働夷なるか、所詮なく右の大小を捻り、さして見るとてあやまりて刀の鍔を破りたり。
    これにてテケバセ大に憤りけるや、泪をこぼし、差うつむき居る故、予と宗谷支配人通詞兼村山長三郎といふ者と兩人にて色々と氣を慰め遣しけれども、無言にて居る故、長三郎板にて鍔を拵遣し、且予が持合せたる畫をアサマよりのツクナイ ツクナイの事後に委敷出す なりとて取替遣し、漸機嫌直りたり。
    斯一躰 (に) シャモブリ シャモブリとは日本の風俗と云事 を好ましく思ふ情合なれは、場所々々にて教育せしめは遠からすして上國の風に押移るへきと思ふなり。


    引用文献
    • 串原正峯 (1793) :『夷諺俗話』
      • 高倉新一郎編『日本庶民生活史料集成 第4巻 探検・紀行・地誌 北辺篇』, 三一書房, 1969. pp.485-520.