知里真志保『分類アイヌ語辞典 第1巻 (植物篇)』(1953)
in 『知里真志保著作集 別巻 1 (分類アイヌ語辞典 植物編・動物編)』平凡社, 1976.
「序言」, pp.1-16.
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pp.13-14.
7) アイヌに於てわ木や草わ植物でわない──
「ルイェキナ」を「フキの葉柄」と語し,「パラキナ」を「ミズパショォの葉」と訳し,「アイェンケキナ」を「エゾアザミの茎葉」と語し,「アィマン二」を「ハイネズの茎」と訳し得たとしても,じつわ,問題がそこで終ったのでわない。
茎とか葉とか茎葉とか葉柄とかの訳語わ,対象を示すだけで,その対象をアイヌがどのように把握しているかとゆう,語の意味の在り方についてわ,なんら触れるところがない。
そのような訳語わ,木や草を植物として考えるところから生れて来るのである。
ところが,アイヌに於てわ,木や草わ植物でわない。
少くとも,われわれの用語の意味に於ける植物でわないのである。
アイヌの考え方に従えば,獣や鳥や魚や虫が神であるように,木や草もまた神なのである。
彼等わ神の国でわ人間と全く同じで,人間の姿をして人間と同様の生活を営んでいる。
家族もあり,部落もある。
アイヌの植物名に,「アハチャ」(aha-acha ヤブマメ・伯父) とか,「コムニフチ」(komni-huchi カシワ・婆) とか,家族関係を表わす語の附いている例を見いだすのわ,彼等にも家族があるとゆうアイヌの考え方を示すものである。
また「カシワ婆」とゆうのわ,年老いたカシワの大木を云うのであるが,そうゅう大木の特別に大きいものを「シ・コタン・コン・二」(si-kotan-kon-ni 大きな・部落を・領する・木) と云う。
つまり酋長みたいに考えているのである。
彼等わ人間と同様の身体をもつ。
それで,その身体の各部にも人体と同じ名が附けられ,
根を「足」(kema,chinkew) と呼び,
技を「手」(tek,mon) と呼ぴ,
幹を「胴」(tumam) と呼び,
皮部を「皮」(kap) と呼び,
木質部を「肉」(kam) と呼ぶ
のである。
彼等わ人間同様に髭を生やしたり,なめし皮の衣を着たり,弁当を持ったりする。
それで,
サルオガセを「木の髭」と呼び,
カプトゴクを「木の革衣」と呼び,
ヤドリギを「木の弁当」と呼ぶ
のである。
彼等わ人間的な行動もする。
それで,
立木を「アシニ」(as-ni 立っている木) ,
青草を「アワキナ」(awa-kina 坐っている草) ,
まがり木を「ホックニ」(hotku-ni 腰をかがめている木) ,
倒木を「サマゥ二」(samaw-ni 寝そべっている木)
と云うのである。
アイヌの植物名に,
「放屁する木」(キクコプシ) だとか,
「放尿する草」(ツリフネソォ) とか
「お尻に糞をつけている木」(エゾ二ワトコ) だとか,
生理的な行為にもとずく名称の見いだされるのも,植物に対するアイヌのアニミスティックな考え方の現われなのである。
そうゆうアニミスティックな考え方に立つのでなければ,アイヌめ植物名の本当の理解わ不可能である。
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