ヒトは,親に育てられて巣立ちするタイプの動物である。
この種の動物では,子どもは親から,どんなときにどんな発声をすべきか,どんなものを食物にするか,その食物はどこでどのように見つかるか,ということを学ぶ。
この動物がさらに社会的動物であり協働を営む場合,情報の伝達・共有のための<言語>が生起する。
この言語は,《どんなときにどんな発声をすべきか,どんなものを食物にするか,その食物はどこでどのように見つかるか,‥‥‥》を解決する──そしてこの限りの──言語として,実現する。
特に,この<言語>では,「川」のような一般概念は,起こらない。
萱野茂 (1988):
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二風谷の地域内、仮に幅2キロ長さ7キロの内側にアイヌ語の地名がどのぐらいあるかといいますと、沙流川左岸に 50 カ所、沙流川右岸に 23 カ所であります。
‥‥‥左岸のほうを言いますと、
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ぺンケトコム・トコムウトルクシポンナイ・パンケトコム・ニプタイ・フレナイ・キニプタイ・モシリ・ケナシ・ケナシパオマナイ・トイピラ・シケレぺ・ルウェペロ・ヌペサンケ・ユオイ・ポロモイ・ニナラカ・リクンニナラカ・ポンオサッ・アシリピパウシ・リエプイ・オサッ・ホアフンケイ・ルペシポンナイ・オケネウシ・オサヌシ・ポンニナラカ・コケラ・ピパウシ・フシコナイ・フシココタン・タナッシリ・マカウシコケラ・マカウシ・マカウシソ・トンニタイ・カンカン・カンカンソ・サイコプ・イウォロオマプ・エサオマカンカン・オマンルパラ・シラッチセ・シラッチセチャシ・ポンカンカン・カンカンプトフ・ポンカンカンチャシ・コトコトキ・チャシコッ・ピラチミプ・二ナチミプ。
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ここまでは沙流川左岸二風谷地区内 50 カ所。
これから、沙流川右岸へ渡り平取のほうへ下っていきます。
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オポウシナイ・ソカオマプ・オプシヌプリ・ヌプリラ・ヤイニタイ・タイケシ・スルクウンコッ・クルマツオマナイ・ルオマナイ・オクマウシ・ヌタッケシ・ウカエロシキ・ペウレプウッカ・学田。
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これらの中で日本語であるのが学田だけ、これは明治になってから二風谷共同用地として使われたんで、その名前が残っております。
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ピンニ・オプシピラ・ヤラチセウンナイ・タユシナイ・ウェンナイ・ピラチミナイ・ぺンケオユンぺ・パンケウユンペ・ヌプリケシ。
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ここまで沙流川右岸 23 カ所、両方で 73 カ所になります。
‥‥‥ このように、なぜアイヌが自分たちが生活している範囲に丁寧に名前をつけたかといえば、狩猟民族であったからであります。
たとえば狩りに山へ行き、シカをとり、あるいはクマをとった場合、それらの肉を一人で背負って帰ることができないときに、一家族や村人に肉を取りに山へ行かせます。
そのときに、どの沢のどの台地に肉を置いてきたかをはっきり教えなければ、肉のあるところへ家族や村人は行くこと、ができないのであります。
そのような理由から、アイヌたちは自分たちの行動範囲に、まるで自分のたなごころを指すかのように名前をつけ、それを若者たちに教え、その地名を覚えることが狩猟民族の心得の第一歩であったのであります。
そのようなわけで、この狭い二風谷の中にこんなにたくさんの地名が残っていたのであり、大正15年生まれの私でさえこれほど記憶していたのですから、忘れ去られた地名がどのぐらいあったものか、いまでは想像もつきません。
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(本多勝一『先住民族アイヌの現在』, 朝日新聞社, 1993. pp.214-216.)
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ここで列挙されている地名 (固有名) は,意味分析できる構造になっている。
例えば「スルクウンコッ」だと,surku=トリカブト,un=ある,kot=沢,と分析される。
しかし,これを「一般概念 surku,un,kot の組み合わせ」と見ると,間違いになる。
「スルクウンコッ」はあくまでも固有名詞であり,surku,un,kot の身分は,名前に意味を付与する「助詞」といったところである。
──「3匹」「3枚」の「匹」「枚」が,個数表現に対象の様相の表現を込めようとするものであり,身分として「助詞」であって一般概念ではないのと,同じである。
──「太郎」「花子」の「郎」「子」が,名前に性の表現を込めようとするものであり,身分として「助詞」であって一般概念ではないのと,同じである。
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