Up <対訳不能>の構造 作成: 2017-01-09
更新: 2017-01-09


    日本語とアイヌ語の間に,対訳は成り立たない。

    日本語文は,外来語および造語がほとんどを占める。
    この外来語・造語が日本語として定着するのには,長い時間を要している。
    また,この日本語文は,構文を所謂「古典論理学」に乗せている。
    「古典論理学」は,古代ギリシャや中国出自の論理学が時間の流れの中で練られて,この形になったものである。

    アイヌ語は,このような歴史と無縁である。
    この関係にある日本語とアイヌ語の間に,対訳は成り立たない。


    日常会話でも,対訳不能であることは同じである。
    「こんにちは」は,アイヌ語で「イランカラプテ」」は,嘘である。

    実際,いまの生活の「こんにちは」は,アイヌの生活には所在が無い。
    アイヌの生活の「irankarapte」は,いまの生活には所在が無い。
    即ち,つぎの二つは,構造・様相が全く異なる:
    • いまの生活における《だれがだれにどんな条件・状況で「こんにちは」を使う》
    • アイヌの生活における《だれがだれにどんな条件・状況で「irankarapte」を使う》

    いったい何者が「「こんにちは」は「irankarapte」だ」を言い出したのか定かでないが,知里真志保の最も嫌悪するタイプの「アイヌを知らない者がやるインチキ」である。


    ありふれた自然物を指す単語だったら,対訳できる?
    これもだめである。
    「木」はアイヌ語では△△」」「「川」はアイヌ語では△△」」などアタリマエに言えそうに思えるが,言えないのである。
    日本語とアイヌ語は,カテゴリーのつくり方がまったく違っているからである。

    翻って,英語の授業で「日本語の「○○」は英語では「△△」」がアタリマエに言えるのは,日本語と英語が同型だからである。
    この同型は,歴史のたまものである。
    ──そして,日本語とアイヌ語の間には,両者を同型へと近づけるような歴史がなかったということである。