Up | 筆録 | 作成: 2016-12-30 更新: 2016-12-30 |
これは,金田一京助の「貢献」である。 金田一は,「ユーカラ」を自分の研究対象の一つに据える。 このときの彼のスタンスは,言語学者のスタンスである。 言語学者のスタンスであるから,ユーカラに対し金田一が作業することは,ことばを抽出することである。 その方法は,「筆録」である。 ユーカラの筆録は,ことば以外──空気,場面,気分,パフォーマンス,音──を捨てることである。 ──抽象は捨象! 金田一は,ユーカラ研究の「権威」になる。 これにより,金田一のやり方が「ユーカラ研究」だということになる。 こうして,ユーカラを文化遺産として後世に残さねばの思いをもったアイヌ系統者が,自分が覚えているユーカラの筆録に取り組む。 屈指が金成マツというわけである:「金成マツノート」(約100冊) 筆録を届けられた者の行うことは,「翻訳」である。 こうして,「ユーカラ研究」のゴールは,日本語翻訳テクストである。 さて,この仕事はどんなふうになるものか。 内容が大同小異のものの翻訳を,際限なく続けるというものになる。 それは,考古学の「発掘すればよいというものでもなかろう」と同じふうになる。 実際,「金成マツノート」の「貴重」が唱えられるが,これが建て前で言っているだけだということは,これのその後の経緯が正直に物語っている: (http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200608120394.html)
やっていることは,「金成マツノート」の利用である。 翻って,利用するために「貴重」と持ち上げたのだ,ということである。 筆録は,空気,場面,気分,パフォーマンス,音を捨てる。 いまの時代だと,映像の形でまるまんま収録できる。これは,素人にも造作のないことである。 しかし金田一の時代は,これは無理なことである──少なくとも,とんでもなく敷居の高いものになる。 時代が降ると,音を収録したものがいくらか有るようになる:
『アイヌ歌謡集』, 日本放送協会放送文化研究所、日本コロムビア 「第1集」1948,「第2集」1949.
『沙流アイヌの歌謡』, 1959-1961
1955〜1975 (所収 :『萱野茂のアイヌ神話集成』, 平凡社, ビクターエンタテインメント, 1998.) こういうわけで,いまの時代にユーカラを最も再現するものは,音収録のものである。 しかし「ユーカラ研究」は,やはり「日本語翻訳」がゴールになる。 音収録は,これに続くステージ──即ち,<つぎ>──が無いのである。 実際,<つぎ>が無いのは,映像収録でも同様となる。 なぜか。 「ユーカラ研究の方法論」というものが,そもそも持たれていないためである。 ──もっとも,方法論の欠如は民俗学的学術に共通の問題であるが。 |