金田一 京助『アイヌ叙事詩 ユーカラ』(岩波文庫, 1936)
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pp.23-25
さて、以上述べた神々のユーカラと英雄のユーカラを通じて、そこに共通に存する一大特色は、何故か毎篇必ず第一人称説述体で、「我じかじかす」「我云々す」といふ体裁に成ることである。
そして終に行って『・・・・と某神が自ら歌った』と終るのである。
即ち、熊が自分で歌ったといふ歌、狼が自分で歌ったといふ欧、雀が自分で歌ったといふ歌、悪魔が自分で歌ったといふ歌等々で出来てゐるのである。
(だから英雄のユーカラも、英雄自身がその遭遇した事件を自身で設述諷詠する口吩で出来てゐるものなのである。
どうして抑々かゝることが生じてゐるのであらうか。
熊が人間の語で云ふ筈がなく、悪魔も想像上のもので、決して言語を用ひる発想をする事実があり得る筈がない。
それだのにさう信じて語り伝へるのは、アイヌが子供のやうな単純な心で、それをも事実と信じてるのだと解してよからうか。
恐らくはさう解すぺきではなからう。
それでは何と解すべきであらうか。
アイヌには巫術が行はれ、部落の大事は巫女をして神意を託宣せしめ、その言に聴いて疑はしきを制定したものである。
色々な『榊々のユーカラ』は、恐らく事に際して巫女にかゝりてその口に云はした神話が起源であった。
だから神々のユーカラは皆第一人称になっゐる。
巫女にかゝって巫女の口に発した巫歌の文言であるから、「神々のユーカラ」が歌謡だった。
巫女の日を発した神語であるから、その詞章が部落の人々に信じられ、信じられるから伝承されて、部落生活の重要な知識となってゐたものであらう。
アイヌでは、すべての女性が巫女だった。
神が憑ってその口を通して神意を漏らすのは女性だけ、其が女性の特権だった。
男子はたゞ神へ祈詞を唱へて祈願し,要求し、談判することも出来るが、女性は憚りあって神ヘ直接に言葉を言ひかけることが出来なかった。
その代りに、神々が憑くのであった。
古来色々な場合、色々な女性の、幾百幾千幾万の巫歌が、事に臨んでアイヌ巫女の口から発せられたであらう。
そして重要性のあるものが、後まで自然に伝承されたであらうが、長い間には、如何なる時に託宣したものであったか、その動機が忘れられて、詞章の意味の不明を来すこともあり得たであらう。
無論その間には訛伝を生じることもあったであらう。
時代の浪に洗はれて、後に伝承されて残ってゐるものは、何等かの意味で重要性をもつもの、及び動機が忘れられても詞章自身独立性をもって、説話として価値あり興味を有するものなどであらう。
かうしてアイヌ神話の神々のユーカラが誕生したのであらう。
已に神語だったから、この歌謡の性質は宗教的詞章であった。
決して単なる観照の、或は聞いて享楽する為めのみのものではなかった所以である。
それが聞いて楽しみ、やゝ純観照的対象へ一歩踏み出した所のものが、英雄のユーカラそのもので、この意味から、英雄のユーカラに至って始めて本当の文学的歌謡へ接近したといふべきである。
併しながら、英雄のユーカラといへども、アイヌ部落に於ては、まだ本当にあったこと、即ち歴史的事実のやうに考へられて、昔の事を問へば即ち英雄のユーカラをも、丁度神々のユーカラ同様に、引用して来て昔を説くのである。
この点まだ本当の文学的作品とまではなってゐないといふべきである。
況んやそれが、曾て個人の創意を許さず、前代からの伝承を尚んで、祖父以来のものであるからそれ故に関心を置き、傾聴をするのである。
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