|
最上徳内 (1808), pp.523,524
又古しへウキクルミ、シヤマユクルといへる兄弟あり。
軽捷にして高所より飛などする術を得、巧智ありて網を結(び)魚を捕(ふる)こと、其餘種々の利器多く此二人が作て教たる事なり。
シヤマユクルは弟なれども、其才殊に兄にはおとるよし。
ウキクルミは専(ら)東濱に居たる故、東地の開祖とし、シヤマユクルは西邊の祖と心得、これを紳とし(て)祭る。‥‥
人或は此説をとりて、ウキクルミを義経とし、シヤマユクルを辨慶とし、或はウキクルミを辨慶とし、シヤマユクルを義経とす。
義経の此島に来りしことは曾てなきことゝも聞へず。
軽捷智慧の事といひ、おもひあはすること宜なり。
此等のことを夷人は何と傳ふるやらむいぶかしくて、テシオの番家に居たる喜右衛門といふものよく夷語にならひたれば問はしめしに、トマヽへの長イソマルケといふもの、
シャモよくウキクルミを義経サマ、シヤマユクルを辨慶サマなどゝいふ。
されども我が古老に聞し所と異なり。
聞く所のこときは、二人は兄弟にしてともに此嶋に生たる人なり。
亦二名は一人にして、所によりて其稱かはるといふ説をも傳ふ。
終に北の方海をわたりてシャモの國に入給ひしといふ
と答し。
此等の説をもてみれば、愈源豫州に牽附がたき状あり。
これによりて察すれば、ウキクルミを義経とするの説、和人の附會に出で、ゑぞの舊来の傳にあらざることしるべし。
|
|
|
菅江真澄 (1791), pp.512-514
こゝにイタンギという磯の名あり。
( |
イタンギは椀をいひ,シュマイタンギとは茶碗をいうとなん。)
|
そのいにしへ,源九郎義経の水むすひ給ひし器の,浪のとりて,こゝに打よせてけるゆへを語れり。
イタンギとは飯椀をいふなり。
判官義経の公をアヰノども,ヲキクルミとて,いまの世までもいやしかしこみ尊めり。
あるはいふ,夷の,判官とておそれかしこみて神といたゞきまつるは,小山悪四郞判官隆政と聞へたりし人,蝦夷の國の戦ひに鬼神のふるまひをなして,いさをしすくなからじ。
小山統の家には巴の圖を付てければ,巴を蝦夷ら判官のみしるしとて,かれにもこれにも彫て,身のたからといふいはれしかしか。
( |
小山四郞判官隆政は下野大掾義政の子たり。
小山の家なる自標は雙頭の巴形なり,さりければ蝦夷の國に巴をめて貴めり。是をなにくれの調度に刻て家の護りとす。
蝦夷は巴をたふとむと,いやしくもおもひ,此島へ渡す具ともに何のわいためなう三頭の巴を標してわたせば,蝦夷人これを見て,をのがもてる具ともに三巴を彫てけることしかり。)
|
源九郎義経の,ゆめ此嶋へ渡給ひしよしのあらざめれど,義経の高き御名をかりにかゝやかして,蝦夷人らををひやかしたる,名もなき,ひたかぶとのものゝ,をこなるふるまひにてやあらんかし。
おもふに小山判官と九郎判官と,蝦夷人か,うちまどへるにや。
西の浦江差の磯邊に,小山の観音とて,その菩薩の同を社に作りて,隆政のはぎまきをひめ齋るよし。
うへも,悪四郞のその勲功そしられたる。
( |
江差の湊にいと近き小山観音といふは,あらはゞきの神也。
四郞隆政いくさきみとして勳をあらはし,あゆひひのとつおちたりしを,こゝに祭るという。
又津刈の郡蒼杜の郷塘川のへたに,九郎義経の片脛□(脛巾,はばき) ここに齋ふ。
處をシリベツの林といふ。
又三河の國刀鹿の社のほとりにも,あらはゞきの神といふかみ社のあり。
おなし神のところところに聞へ奉るものか。)
|
さはいへど源の九郎義経この嶋渡したまひしとは,むかしいまの世かけて,もろこし人までもすてに知れりなど人もはらいひわたれば,さるゆへもあらんか。
伊達治郎泰衡,人目は義経にそむき奉りしこゝろにてやありつらんかし,此君の行衛をしたひ奉り,はるはると贄の柵までのがれ来て,ほゐなう河田にうたれたりしと。
秀衡いまはとなりて義経の君を枕上にすへて,錦の袋を,なとき給ひと,世にものうき時は此ひもときて,いかにもなり給ふべし。
蝦夷の千嶋へも渡りおはしたまへということを,帒の中の書に,ねもころにかい聞へたりしといふ,みちのく物語もありけり。
|
|
引用文献
- 最上徳内 (1808) :『渡島筆記』
- 高倉新一郎編『日本庶民生活史料集成 第4巻 探検・紀行・地誌 北辺篇』, 三一書房, 1969. pp.521-543
- 菅江真澄 (1791) :『蝦夷迺天布利』
- 『菅江真澄集 第4』(秋田叢書), 秋田叢書刊行会, 1932, pp.493-586.
|