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松浦武四郎 (1857-1860), p.809
東部サル場所といへるは西ユウフツ領より東ニイカップ境に至り、其の中にサルベツといへる大川あり。
川源はトカチ境又石狩領のユウバリ等と接して此源を窮めしもの昔しより稀なりけるが、其場所内
サルフト、ヒラカ、シユムンコツ、シヤリハ、ニナ、
ユフタニ、ヲサツナイ、ホロサル、ヌツケヘツ、ニヨイ、
モンヘツ、ニナツミ、カハリ、アツヘツ、ヒラトリ
と十五ケ所に分れ、
人別,文化度前は千七八百人も有りしが、追々減じて今は千二百二十人ならでなし。
其内ヒラトリ村に義経大明神の社といへるもの有けるが、一小祠峨々たる数十丈の岩壁の上に有ていと風景よろし。
今其神體を濱の運上屋の上に持来りて祭りあるに、其由縁を聞かば、
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往昔源九郎義経は来り給ひてヒラトリ村の酋長某の家に一宿なし、
其の夜の伽に娘某を召し、わりなき中となり給ひて、
此家に傳ふる處の虎の巻をいつかな盗まんとし給へども、其乙名もさるものにして、聊か心をゆるさゞりしが、
程なく娘に一子出来給ひしに、それにさえも其寶の有處をしらさざりしまゝ,或る時廷尉其子を抱きて爐邊に座し、盲したる眞似にて子供を過ちて火の中に落し給ふや、乙名それにていよいよ盲せしは實事と思ひて一巻のゆるしを與えし也。
左候よりして此書を見、雲を起し雨を降し等するの術手に得しまゝ,濱邊へ出て小舟を盗み、其に乗りて迯(逃)給ふや、
乙名大に驚き、其跡よりして追かけ行といへども、
義経公には其通力にて雲を起し、また追手の舟の他の方へ遠くなるやまた雲を晴し等して、終に満洲てふ國へ去り給ふが、
其爐中へ落し給ひし子は死せしが、其時に母の懐に忘記念を残し給ひしが、後出生して此家の跡を嗣し
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と。
夫れよりして今に連綿たるよし申傳え、今何の書物てふものも無く、系譜様のものもなく、唯文字無き地なれば口の申傳えにして有るを爰にしるし置くに、‥‥
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引用文献
- 松浦武四郎 (1857-1860) :『近世蝦夷人物誌』
- 高倉新一郎編『日本庶民生活史料集成 第4巻 探検・紀行・地誌 北辺篇』, 三一書房, 1969. pp.731-813
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