Up 熊猟 作成: 2016-11-22
更新: 2019-02-26


    熊猟は,「アイヌの狩猟採集生活とは,実際どんなものなのか?」のよい素材である。
    というのも,熊猟は,「それはどんな?」と自問するや「???」となるものだからである。
    実際,アイヌの熊猟は,猟具が弓矢である。鉄砲ではない。──松前藩は,アイヌに銃火器を流通させないようにした。
    そこで現代人は,「弓矢でヒグマをとれるの?」で詰まってしまう。

    先ず,毒矢が用いられる。
    毒矢を射られたヒグマは,(20〜30分? 1〜2時間?) で死ぬ。

      砂沢クラ (1983), p.43
     私の父は鉄砲 [村田銃] でクマを捕っていましたが、祖父のモノクテエカシの時代には毒矢で射るだけでした。
    矢がはずれたり、うまく当たってもすぐには死にませんから向かってくるクマと格闘になり、夕シロ (山刀) で仕留めるのはしょっちゅうだったそうです。
     エカシの体には、背中にも手足にも、体中に模様のようにクマにひっかかれた傷、かまれた傷がついていました。
    「エベレ (クマ) は山の神だから、エベレにつけられた傷は治りやすいのだ」とエカシは言っていましたが、昔のクマ猟は、度胸があって知恵があり、機転のきく人でなくては出来なかった、と思います。

      東□元稹 (1806), pp.38,39.
    弓は丸木也。
    長さ三尺餘、大き((太さ))三寸ばかり、椛にて巻、弦は苧縄を用ゆ。
    ()の長さ壹尺五寸(ばかり)、篠なり。
    獣骨を三寸(ばかり)付たす。 是は獣に射立ときに打込むがためなり。
    (やじり)は竹或は銅を用ゆ。 毒をぬる。
    羽は、鷹、(からす)にても造る。 みな四羽也。 上國の射法のごとくにはあらず、羆を射るに岩を傳ひ山をよぢて羆をさけながら犬をかけるによって、羆は夷人をくらはんとねらへども、彼方此方へ飛めぐるによって、羆平地の如く自由を得ず。 然るに彼狗後部にくらひ付を、ふり返り狗をかまんとする時、腰だめにて多くは射る事なり。よって四羽にしたるものなり。
    一矢射ると、羆憤怒によって、猛勢別してはげしによって、毒氣のまはる事はやしと。
    罷も矢を受けると、其儘矢をくわへて引ぬくに、()は篠にて獣骨に鏃をさし込なれば、箆はくわへて取れ共、獣骨より鏃は残りて抜けず。
    尤矢には 獣骨、鏃、此處に毒をぬる (圖略)斯仕かけあれば也。
    血の流れ出る所へ草をすり付、又沙等をすり付る所を、二の矢を射るなり。
    此して毒氣速にて、遠く遁るゝ事あたはずして((たふ))ると也。


    猟期は,基本的に冬である。
    冬ごもりのクマを狙えるし,積雪の上で見通しが利く。

    夏期は,「行き会えば」ということになる。
    実際,夏場の草木の密生の中では,「探す・追う」はできない。

    夏期に強いてクマをとろうとするときは,罠猟ということになる。
    その罠は,アマッポと呼ばれる仕掛け弓である。
    これに掛かると,毒矢が放たれる。
    罠を仕掛けた者は,罠を巡回し,ヒグマが掛かったことがわかると,そこからヒグマの跡を追い,回収する。


    冬期の狩りは,冬眠で巣穴にいるヒグマの狩りである。
    ヒグマの巣穴は,雪に埋もれている。
    この巣穴を,雪の変色を目印にして見つける。

    巣穴を見つけてからのやり方は,文献によりまちまちで一定しない。
    ただ,一定しているのは,つぎのヒグマの癖を利用するということである:
      「専ら pull で,push をしない」

    「専ら pull で,push をしない」なので,巣穴の入口の雪を払い巣穴にもぐりこんでも,襲われない。
    引き込まれないことだけに注意して,仕留めの段に進む。
    仕留めは,毒矢を射るとか,槍を突くとかである。

      同上, pp49,50
    私の母ムイサシマッの父親荒井テンラエカシは、母が、まだ子供のうちに死んだので、私は,この目で見たことはありません。
    でも、母は何かにつけエカシの思い出話をしてくれましたし、エカシの弟のランケトツクエカシも折にふれ、テンラエカシがどんなに度胸のある狩人だったかを教えてくれたので、私には,とても親しい、なつかしい人です。
    テンラエカシの祖父はロシア人だったので、エカシはロシア人そっくりでした。
    目は黒かったのですが,肌は透き通ったピンク色でヒゲは赤く、背も六尺 (約 180 センチ) 以上ある大男でした。
    冬でも、ホモンベ(モモひき)をはかず、きやはんだけつけて、毛ずねから雪ダンゴを下げ,それをラッキラッキ(ぶらぶら)きせて歩いていたそうです。
    こういう人でしたから、クマを捕るにも、ほかの人にはまねが出来ないような捕り方をしました。
    毎年、アンタロマという山の白い岩のそばにあるクマの穴に、自分から入り込んでクマを捕ってくるのです。
    ある年など、穴に入りかけた時に、急にクマが出てきたので、入り口の壁とクマにはきまれ、前へ進むことも、しりぞくことも出来なくなりました。エカシは毒矢を手に握り、クマの心臓めがけて突き刺して殺したそうです。
    アイヌの間には「エベレ(クマ)は穴の中に入って来た人間は決して殺さない」という言い伝えがあるのですが、すすんでクマの穴に入り込んだアイヌは、テンラエカシぐらいだろう、と思います。
    エカシが入った穴は、ランケトツクエカシが「あれが、おまえのエカシが毎年、エベレを捕った穴だ」と教えてくれました。
    岩だらけのガケのようになっているところの途中にあり、テンラエカシは山の上の方からブドウづるを伝って穴まで降りたそうです。


    あるいは,巣穴の入口の雪を払い,木を突っ()いのように立てかける。
    ヒグマはこれを巣穴の中に pull しようとして,悪戦苦闘する。
    これで弱らせて(?),仕留めの段に進む。

    つぎの話は,時は昭和で銃を使用した猟であるが,まだアイヌの猟の雰囲気をよく伝える:
      同上, pp.256-258
    芦別はアイヌ話でアッス (立つ) ベツ (川)。 切り立った川という意味で川が急流なので沢からは登れず、奈井江から山に登り、美唄の山に入ってテッペンを越え、芦別の山の奥に出るしかないのです。
     川の中を歩いたり、木を切り倒して作った一本橋を渡って沢をいくつも越え、途中で泊まって二日がかりで歩かなくてはならず、行き着くまではたいへんなのですが、山にはクマ、テン、ムジナなどけものがたくさんいて、必ず猟に恵まれました。
     芦別には、まだ、長男がおなかにいるころから何度も行きましたが、確か、昭和四年か五年に、一度にクマ三頭を捕る大猟をした時のことは、いまも目に映り、忘れられません。
     美唄の山を越え、芦別のテッペンに向かう途中、三抱えも、四抱えもある大きなナラの木のそばを通りかかりました。 あまり大きいので、私が「この木は一本の木か」と聞くと、夫は「バカもの。この木のウロにクマがおってマカナックルアザボは犬三匹殺され、去年は三浦 (四郎) さんが死ぬ目に遭ったんだぞ」と言って「おるかな」と、穴口をキムンクワ (山のつえ) で突きました。
     突いた、と思った途端、夫は背の荷を投げ「おった。木を切ってこい」と大声で怒鳴りました。 私がウロウロしていると「おまえはここに立っとれ」と言って、細い木のある山の上へどんどん登って行きます。 おそろしいので夫の後を追ってゆき、直径五寸 (約十五センチ) ほどの木を、二人で四、五本かついで降りてきました。
     夫は切ってきた木を穴口の前の雪の中に深く刺し込み、キムンタラ (山の綱) でしっかり縛り付けると、穴口を覆っていた雪をあっという間にはね、穴口をすっかり開けてしまいました。 穴が深く、クマは奥にいるので、穴口までおびき出そうと棒の先に犬をつないで穴の中に押し込みました。 細びき三本でしっかり縛ったのに、あっという間にクマに引きちぎられ、犬は「キャン、キャン」鳴きながら飛び出してきました。
     犬がダメだったので、こんどは私が棒の先にガンピを巻いて火をつけ、差し込みました。 クマは、一撃で火をたたき消し、棒も折って、棒を穴の中に引き込もうとします。 夫は「放すなよ、放すなよ」と言いますが、クマとの引っ張り合いで横腹が痛くなりました。
     鼻が見えたところで一発撃ったのですが「ウェー」という声が死んだような声ではないのです。 暗くなってきたので、その日は谷に降り、テントを張って泊まりました。
     翌朝早く「こーい」と夫が呼ぶので穴口へ行くと、夫はクマを殺していました。 長い棒の手前に鉄砲を縛りつけ、棒の先を穴の中に入れてクマの体に触ったところで撃ったのです。 首にキムンタラを巻いて引き出すと乳が出ています。
     「子がおるぞ」と夫が穴に入ったので、私も「子を養える」とうれしくはねながらついてゆくと、夫が急にあとずさりしたので引っくり返りました。 雄と雌の二歳子二頭が抱き会って寝ていたのです。 殺して引き出してみると、雄は親より大きかったのです。 ほんとうに驚きました。



    引用文献
    • 東□元稹 (1806) :『東海參譚』
      • 高倉新一郎編『日本庶民生活史料集成 第4巻』(探検・紀行・地誌. 北辺篇), 三一書房, 1969. pp.23-44.
    • 砂沢クラ (1983) :『ク スクップ オルシペ 私の一代の話』, 北海道新聞社, 1983.