Up おわりに──「自分はアイヌである」を言う意味 作成: 2019-12-21
更新: 2019-12-21


    アイヌとは,アイヌ文化を生きた者のことである。
    このアイヌは,終焉していまは無い。
    "アイヌ" の「自分はアイヌである」の意味は,「自分の先祖のうちにアイヌがいる」である。

    さらに,「自分の先祖のうちにアイヌがいる」の意味は,「自分の先祖のうちに少なくとも一人アイヌがいる」である。
    「アイヌ系統者」は,「自分の先祖のうちに少なくとも一人アイヌがいる」で定義される。
    "アイヌ" はアイヌの先祖の数を誇りたいだろうが,アイヌの先祖の数に配慮した「アイヌ系統者」の定義はつくれない。

    そして,「自分の先祖のうちに少なくとも一人アイヌがいる」なら,だれにも可能性がある。
    アイヌ文化期以来,アイヌ系統者の移動には北海道の外に出ていくものがあるからである。
    アイヌ文化期の始めからいままで, 千年近く経っている。
    アイヌ系統者は,いまは日本国中そして世界中に散らばっていることになる。

    したがって,"アイヌ" が言ってくる「自分はアイヌである」に返すことばは,「そういう言い方なら,わたしもアイヌかも」である。
    さて,だれもがアイヌであり得るところで「自分はアイヌである」を言う意味はあるかというと,無い。
    実際,"アイヌ" の言う「自分はアイヌである」の真意は,「おまえたちはアイヌではない」である。


    「アイヌ」というものが見える形でいまの時代に存在しているわけではない。
    "アイヌ" は,「自分はアイヌである」をことさら言うことを以て,自分を他から差別しようとする者である。
    今日「アイヌ差別」をする者は,"アイヌ" である。

    "アイヌ" が「自分はアイヌである」を言って自分を他から差別しようとするのは,「アイヌ」を売りにしているからである。
    だれもが「わたしはアイヌかも知れない」なのであるから,「おまえたちはアイヌではない」を言わねばならないというわけである。
    この構造を,「アイヌはやったもん勝ち」と謂う:

      砂澤チニタ (2009)
    私達アイヌ系の者は、現在もチセに暮らしながら狩猟や山菜取りをして暮らしているわけではない。
    普通に車に乗って CO2 を排出しまくり、普通に一軒家やマンションに暮らし、ただただ一般的な暮らしをしているに過ぎないのに、その現実を捻じ曲げ、自分たちの自己陶酔や装いのために「アイヌ民族」を“エコ民族”と持ち上げる者が後を絶たない。

    さらには、そのように持ち上げられたアイヌ系の者が、温泉に浸かったサルの如く、威厳もプライドもかなぐり捨てて、神輿担ぎに乗せられている。
    つまり、現在を自立して生きている「アイヌ」など、学者、研究者、学芸員には必要ないのである。
    欲しいのは差別に喘ぎながら生き、細々と昔から文化を守っている「アイヌ」なのである。
    そのような扱いは、実際には差別を生み、文化の形骸化に目隠しをしている姿を物語るものでしかない。

    さらに情けないのはそんな研究者や博物館やマスコミに乗じて、表面に出る時だけアイヌ衣装をまとい、根拠のない特権をふりかざしているアイヌ系の者の姿である。
    私は昔から「アイヌはやったもん勝ち」という言葉を引用してきた。
    「個」ではなく、まず「アイヌ」ありきで生きているアイヌ系の者をそう呼んできた。
    差別やアイヌ文化の保存を叫んでマスコミから注目され、"タダの人"が「アイヌの人」として持ち上げられ、勘違いの上塗りを繰り返している。

    そして、いつしか「アイヌ」であることが職業となり、特権の理由となり、自らの手で新たな差別を造り上げてしまっている。

    このような安易で短絡的な生き方は若年層にも及び、自分の祖父、祖母への差別をあたかも自分のことであるかのように訴える者、半狂乱でラップを叫び、踊り狂う者、突然「民族」に目覚めてアイヌミュージシャンとしてうごめく者、アイヌ文様をモチーフとするデザイナーなどと、もう何でもありの、まさに「アイヌはやったもん勝ち」の世界が作られてしまった。

    研究者やマスコミが「アイヌ」であることだけで、個人の資質、意識、思想などを見極めることもなく持ち上げてくれるのだから、こんな楽な生き方はなく、自称「アイヌ」が再生産されていくのも頷けるというものだ。

    一体何を根拠に「アイヌ」と認定されるのか、誰がそれを認定するのか、自称すれば誰でも「アイヌ」になれてしまうものなのかなど曖昧模糊としたままである。
    そのどさくさに紛れて「借り得」の制度(小生注:アイヌ修学資金制度)を利用しようとする者を増え続けさせたことについて、行政は責任をとるべきである。

    勝手な思い込みによって「アイヌ民族」の誇りを謳う者がいるが、それは大抵の場合劣等感の裏返しのように思われる。
    私は「民族の誇り」など微塵も必要としていない。

    声を出さない、あるいは声を出したくもない自立したアイヌ系の者の生き方が無視されながら「アイヌ」「アイヌ民族」が作られていると言う現実には大きな矛盾を感じる。


    引用文献
    • 砂澤チニタ (2009) :「個を喪失し「アイヌありき」で生きる矛盾と悲劇」, 北方ジャーナル 2009-07