「同族解放」は,「同族解放」を唱える者の独り善がりのキャンペーンになる。
同族は,彼らと連帯しようとする者ではないからである。
しかし,「同族解放」を唱える者は,自分を独り善がりだとは思わない。
実際,独り善がりとは思わないからこそ「同族解放」を唱えられるわけである。
「同族解放」を唱える者は,このキャンペーンに否定的な者・乗って来ない同族者に遭うと,この者を憎悪する。
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須貝光夫『この魂をウタリに──鳩沢佐美夫の世界』, 栄光出版社, 1976.
pp.206-208.
以上のような諸々の胎動を集団の中で確認し、明日に向って、主体的な一歩を踏み出したのが、四十八年一月二十一日、札幌ほくろうピルで開催された「全国アイヌ語る会」である。
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この会がいかに熱気をおびていたか。
それを象徴しているが、一月二十二日付朝日新聞、紙上録音のひとこまである。
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〈わたしはいいトシをしていながら脱アイヌ派だ。われわれは優秀な民族だと世間に誇れるか。残念ながら、昼間からショウチュウ飲んでゴロゴロしているウタリを知っている。必要なのは教養だと思う〉(静内町初老の男性)
〈アイヌからそんなひどいことをいわれるなんて、考えてもいませんでした。ハラが立ちます。あなたは、アイヌがどんな歴史をたどったか知っているんですか〉(前の発言者に向って、平取町の若い女性はキッとなる)」
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