Up "アイヌ"史の要は, 「アイヌ系統者の多様性」 作成: 2017-01-20
更新: 2017-01-20


    現前の「アイヌ史」は,"アイヌ"イデオロギーによるアイヌ史捏造である。
    "アイヌ"イデオロギーは,「アイヌ特権」を獲得しようとする政治イデオロギーである。
    「アイヌ特権」は,アイヌ終焉後アイヌ系統者が一体のものであることを要する。
    こうして"アイヌ"イデオロギーは,「アイヌ民族」をつくり出す。
    「アイヌ民族史」が,"アイヌ"イデオロギーによるアイヌ史捏造の形である。

    科学のスタンスで「"アイヌ"史」をつくろうとする者は,"アイヌ"イデオロギーの "アイヌ"史改竄と対することになる。
    このときの要は,「アイヌ系統者の多様性」を明確にすることである。
    蓋し,「アイヌ民族」一括りに対するものは,「アイヌ系統者の多様性」である。

    実際,アイヌ終焉後アイヌ系統者の生き方は,多様である。
    かつてアイヌコタンであった小さな地域でも,その中のアイヌ系統者の生き方・考え方は多様である。

      二風谷部落誌編纂委員会『二風谷』, 二風谷自治会, 1983.
    pp.233-240
    (「二風谷の商業」から)
     二風谷上地区の民芸品街が現在のように形づくられ始めたのは、昭和40年からである。この年日勝峠が開通した。前年の東京オリンピック開催で日本はようやく国際的に他国と肩を並べられるまで戦後の経済は復興して、日本に旅行ブーム,レジャーブームのきざしが現われた頃である。
     利にさとい二風谷の人々はは、逸早くこの旅行ブームに目をつけ、日勝道路が開通すると、国道沿いにアイヌ民芸品店を作って商売することを考えついた。
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    そこで貝沢正がバラック建ての民芸品販売用貸店舗を建てたので、ここに最初の二風谷民芸品店ができた。 昭和43年にはドライブインピパウシが開店し、昭和46年松崎商店も現在地に移転。その間に、萱野茂、貝沢末一、貝沢つとむ、貝沢はぎ、貝沢守雄などの貸店舗や民芸品店が軒を並べて、今日の二風谷商店街の基礎を作った。
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     昭和48年には二風谷商工振興会 (会長貝沢正) が発足、商店街の振興を計っている。
     昭和57年6月現在二風谷商工振興会 (会長貝沢正、副会長貝沢勉、萱野茂、事務局貝沢薫) 会員数20名 (加入民芸品店16、飲食店4)。
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     アイヌは日用品のほとんどを木や木の皮からつくり、木製用品には木彫、衣装には刺しゅうをほどこす習慣だった。明治になって資本主義経済が北海道にも本格的に流れ込み始めると、明治26年(1893年) 貝沢ウエサナシ (貝沢正・与一・辰男・青木トキ兄妹の祖父、貝沢みな子・定雄・隆司姉弟の祖父、貝沢耕一の曽祖父、霜沢百美子の外曽祖父)、貝沢ウトレントク (貝沢勉・薫・美枝兄妹の祖父) がクルミやカツラ材でアイヌ文様を彫り込んだ盆や茶托を作り札幌で販売しているが、これが二風谷民芸品の始まりといっていい。ウトレントクは大正3年(1914年)、ウエサナシは昭和14年(1939年) に亡くなったため,その後は貝沢菊治郎がパイプの製作・販売をするくらいで、自分たちの伝来の技術を生かして金に換えようと考える者はいなかった。
     その点に着目したのが萱野茂である。昭和20年代には、全国の小学校生徒にアイヌの生活や踊りを見せる巡業に村人を引率参加して、北海道以外の人々の生活や観光地を垣間みて歩きアイヌ民具が高く売れることを知って、昭和28年頃から自らカツラやクルミで茶托やお盆の製作に着手し、その後の二風谷アイヌ民芸、アイヌ観光の先鞭をつけた。
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     昭和30年代末には沙流川の石が観賞石として注目されるようになり39年から貝沢末一、貝沢留治らが専業販売し始めた。なお二風谷から初めて販売された石は、昭和32年に登別温泉玉川商店のチセの前に飾られたものである。
     昭和39年1月には「日高銘石保存会」が設立され (会長貝沢正、会員発足時15人。昭和43年20人)、庭石、鑑賞石の採取と加工販売をしている者が中心となり、木彫りや土産品店を業とする者や石の愛好家が加わって、会員の親睦や原石の払下げ、加工技術の研究や道内道外市場の開拓などを行なった。
     昭和39年2月には、萱野茂・貝沢末一兄弟が二風谷の石を初めて津軽海峡を渡らせ、つてを頼って東京都世田谷区役所のロビーで展示即売会を開いて純益27万円をあげた。この利益は、二風谷部落会に寄附され、当時行なわれていた二風谷小学校の給食費3年分に充当された。

    pp.284,285
    (「証言集」から)
     二風谷の歴史の編纂計画は聞いているが、どうせ歴史とはきれいな所だけで、功罪を正しく伝えないだろう。 例えば町会議員として地域発展につくしたと書くと思うが、実際は町民のために何をやったのだ。俺はそれが気にいらないので協力もしないし、もちろん参加もしない
     俺が言いたいことは、大分前のことだがあるエライ人が「二風谷アイヌは勤労意欲がない。だから貧乏している」と言ったことがある。この人以外の一般の人もそう思っている。
    昔二風谷のアイヌは、開拓使が農耕の指導をした時にはよく働き暮らしも楽であった。明治31年の大水害の時に流失した畑147町歩と記録されている。当時の戸数54戸で割ると一戸平均2.8町も畑を作っていた。
     大正4年平取下流が造田化され、二風谷地区に頭首溝をつくった。導水のために沙流川をせき止める堰堤を造った。ニ風谷の悲劇はその時から起こったんだ。水害の度に二風谷の畑は流され、大正11年の水害では復旧をあきらめて、畑は女に委せ男は出稼ぎに出るようになった。
     奥地の乱開発と王子製紙工場の原料丸太の流送によって耕地は決壊し、せまくなって行った。
     大資本が太り、下流の水田農家が豊かになると反対に二風谷の農民は貧しくなって行ったんだ。そういう図式に目をつぶってよくも「働く意欲がない」と決めつけたり、自らの政治力のなさをアイヌに転稼したものだ。エライ人が一度でも王子製紙や下流の水田農家に抗議したことがあったか。
     王子製紙は平取まで散流、平取からは筏で富川まで下げた。二風谷を無視したことになる。王子は補償の意味か川向へワイヤロープのつり橋をかけたが、風で飛ばされ利用できなかった。
     下流の水田農家は小学校を出たばかりのアイヌの子供を雇いや子守に安い賃金で使ったり、戦後は米1俵と大豆3俵を交換して、大豆は代替えで出荷し3倍も利益をあげていた。春食う米を借りて秋穫れた大豆を出したのも二風谷の農家だった。
     このように何の役にもたたない指導者をほめたたえる歴史は反対だ。
     貝沢福市

    pp.325
    (「あとがき」から)
     ‥‥‥  一部の方で取材を拒否した人もいて残念に思っていますが、担当した委員の説明不充分でご理解をいただけなかったことは委員長の不徳によるものと深くおわび申しあげます。
     長い間には意見の対立もあり,一時は投げだしたこともありましたが、部落の皆様には「兎に角やって見ろ。余り注文をつけないから」と激励され思い直したこともありました。 やっとお手元に届けることができ、ご批判を賜りたいと思います。
    ‥‥‥
    1983年 (昭和58年) 1月 「二風谷」編纂委員長 貝沢正