Up 「ルサンチマン文芸」対「文学」 作成: 2017-02-28
更新: 2017-02-28


    ルサンチマンの者がストレスを発散する方法は,「表現」である。
    攻撃のことばを吐くことで,少しサッパリできる。
    この「表現」のカテゴリーを,「ルサンチマン文芸」と呼んでおく。

    「文学」と「ルサンチマン文芸」との差は,己をみつめる目の有無である。
    理屈をこねる自分に対し,生活している自分がある。
    生活している自分は,欺瞞的であり,みっともない。
    このギャップを「表現」にするとき,「文学」になる。

    違星北斗 (1901-1929) の作品は,「文学」である。
    そしてそれは,「ルサンチマン文芸」を計る規準として最適である。
     
    滅び行くアイヌの為に起つアイヌ
    違星北斗の瞳輝く

    天地に伸びよ 栄えよ 誠もて
    アイヌの為めに気を挙げんかな

    我はたゞアイヌであると自覚して
    正しき道を踏めばよいのだ

    「強いもの!」それはアイヌの名であった
    昔に恥じよ 覚めよ ウタリー

    勇敢を好み悲哀を愛してた
    アイヌよアイヌ今何処に居る

    アイヌには熊と角力を取る様な
    者もあるだろ数の中には

    深々と更け行く夜半は我はしも
    ウタリー思いて泣いてありけり

    名の知れぬ花も咲いてた月見草も
    雨の真昼に咲いてたコタン

    岸は埋め川には橋がかかるとも
    アイヌの家の朽ちるがいたまし

    新聞でアイヌの記事を読む毎に
    切に苦しき我が思かな

    今時のアイヌは純でなくなった
    憧憬のコタンに悔ゆる此の頃

    あゝアイヌはやっぱり恥しい民族だ
    酒にうつつをぬかす其の態

    泥酔のアイヌを見れば我ながら
    義憤も消えて憎しみの湧く

    酒故か無智な為かは知らねども
    見せ物として出されるアイヌ

    白老しらおいのアイヌはまたも見せ物に
    博覧会へ行った 咄! 咄!!

    見せ物に出る様なアイヌ彼等こそ
    亡びるものの名によりて死ね

    聴けウタリー アイヌの中からアイヌをば
    毒する者が出てもよいのか

    山中のどんな淋しいコタンにも
    酒の空瓶たんと見出した

    淪落の姿に今は泣いて居る
    アイヌ乞食にからかう子供

    子供等にからかわれては泣いて居る
    アイヌ乞食に顔をそむける

    金ためたたゞそれだけの人間を
    感心してるコタンの人々
      ネクタイを結ぶと覗くその顔を
    鏡はやはりアイヌと云えり

    我ながら山男なる面を撫で
    鏡を伏せて苦笑するなり

    砂糖湯を呑んで不図思う東京の
    美好野のあの汁粉と粟餅

    支那蕎麦の立食をした東京の
    去年の今頃楽しかったね

    感情と理性といつも喧嘩して
    可笑しい様な俺の心だ

    俺でなけや金にもならず名誉にも
    ならぬ仕事を誰がやろうか

    滅亡に瀕するアイヌ民族に
    せめては生きよ俺の此の歌

    よっぽどの馬鹿でもなけりゃ歌なんか
    詠まない様な心持不図する

    何事か大きな仕事ありゃいゝな
    淋しい事を忘れる様な

    生産的仕事が俺にあって欲しい
    徒食するのは恥しいから

    或る時はガッチャキ薬の行商人
    今鰊場の漁夫で働く

    東京の話で今日も暮れにけり
    春浅くして鰊待つ間を

    骨折れる仕事も慣れて一升飯
    けろりと食べる俺にたまげた

    仕事から仕事追い行く北海の
    荒くれ男俺もその一人

    雪よ飛べ風よ刺せ何 北海の
    男児の胆を錬るは此の時

    世の中に薬は多くあるものを
    などガッチャキの薬売るらん

    「ガッチャキの薬如何」と人の居ない
    峠で大きな声出して見る

    田舎者の好奇心に売って行く
    呼吸もやっと慣れた此の頃

    よく云えば世渡り上手になって来た
    悪くは云えぬ俺の悲しさ

    無自覚と祖先罵ったそのことを
    済まなかったと今にして思う

    仕方なくあきらめるんだと云う心
    哀れアイヌを亡ぼした心