Up 『アイヌ学 (学問) へ』: はじめに 作成: 2017-02-22
更新: 2017-02-22


  戸塚美波子「詩 血となみだの大地」
『コタンの痕跡』, 1971, pp.95-107.
自然は
人間自らの手によって
破壊されてきた
われらアイヌ民族は
何によって破壊されたのだ
この広大なる北海道の大地に
君臨していたアイヌ
自由に生きていたアイヌ
魚を取り 熊 鹿を追い
山菜を採り
海辺に 川辺に
山に 彼らは生きていた


人と人とが 殺し合うこともなく
大自然に添って 自然のままに
生きていたアイヌ
この大地は まさしく
彼ら アイヌの物であった
侵略されるまでは───

ある日 突然
見知らぬ人間が
彼らの 目の前に現われた

人を疑わねアイヌは
彼ら和人を もてなし
道先案内人となった

しかし──
和人は 部落の若い女たちを
かたっばしから連れ去ったうえ
凌辱したのだ──

そして 男たちを
漁場へと連れて行き
休むひまなく
働かせた

若い女たちは
恋人とも 引さ離され
和人の子を身寵ると
腹を蹴られ流産させられた
そして 多くの女たちは
血にまみれて 息絶えた

男たちは
妻 子 恋人とも
遠く離れ
重労働で疲れ果てた体を
病いに冒され
故郷に 送り返された
その道すがら
妻を 子を 恋人の名を
呼びつつ
死出の旅へと発った
(侵略者和人は 利口な 民族であった)
 ‥‥‥

    ここで戸塚美波子は,アイヌを,絵や写真で紹介される「いかにもアイヌ」の姿格好でイメージしている。
    そして,出遭いの場を,北海道に想っている。

    しかし,「いかにもアイヌ」の姿格好は,鉄器文化のものである。
    実際,アイヌの工作は,鉄の刃物や針が道具である。
    木が生活の用途になるのも,チセであれイナウであれ,鉄の刃物があってこそである。

    「いかにもアイヌ」の衣食住,その生業である漁猟採集は,鉄器依存である。
    そこで,問題。
    アイヌは,その鉄器をどうして持てているのでしょう?
    というのも,アイヌは,自分では鉄器を実現する技術をもたないからである。


    ここで「交易」を言い出すと,「鶏が先か卵が先か」の話になる。
    船の工作には,鉄の刃物が要るからである。

    では,「海の向こうから鉄器を持ってきた者がいた」が最初?
    しかしこのときは,上に述べたように,この者と遭遇する現地人は「いかにもアイヌ」ではない。
    石器時代人の姿格好でなければならない。

    即ち,いかにもアイヌ」が初めて和人と遭遇するという絵は,それが和人ではなく他の外地人であっても,成立しないわけである。
    戸塚美波子の思い描いている絵は,間違いである。
    もっとも,この間違った絵を持っているのは,「アイヌ学者」も同様である。


    アイヌの鉄器所有は,《石器文化が鉄器文化と接触》のステージに溯行する。
    このステージには,「いかにもアイヌ」はいない。
    そして,「石器文化と鉄器文化の界面」についての歴史学の知見は,これが本州から北海道へと北上していったというものである。

    「いかにもアイヌ」は,この界面のところで形成されていく。
    「いかにもアイヌ」は,界面の北上の過程で形成されていく。

    こういうわけで,「いかにもアイヌ」が初めて和人と遭遇するという事態は,存在しない。
    繰り返すが,《「いかにもアイヌ」が初めて和人と遭遇する》の絵は,フィクションである。


    「いかにもアイヌ」は,これの成立の契機として<鉄器>がある。
    ここで,鉄器をもたらしているのは,和人である。
    よって,「いかにもアイヌ」は,これの成立の契機として<和人>がある。

    まとめよう。
    「いかにもアイヌ」は,<和人>がこれの構成要素になっている。
    「いかにもアイヌ」は,和人依存である。
    和人依存の前の形は,石器文化人であり,それは「いかにもアイヌ」ではない。
    即ち,アイヌは,最初から和人依存である。


    戸塚美波子の上の詩は,つぎのように終わっている:
 
千古の昔より             
われらを 見守ってきた
この大地のある限り
私の父母は アイヌ
アイヌは アイヌなのである
 (つまり人間である)
    しかしこの「アイヌ」「人間」は,戸塚美波子が自分のアイデンティティーにしたい「いかにもアイヌ」ではない。
    この「アイヌ」「人間」は,石器時代人である。


    「アイヌモシリ」プロパガンダが,喧しい。
    これは,ユートピア幻想である。
    この幻想は,《「いかにもアイヌ」は,和人依存》を思考停止している様である。

    「アイヌモシリ」プロパガンダが喧しいのは,何を言ってもだいじょうぶ状態だからである。
    チェックされる心配がないからである。
    チェックする役はアイヌ学であるが,これは壊れて久しい。
    イデオロギーで,グチャグチャにされてしまったのである。
    「アイヌ学者」でチェック機能を果たせるような者は,いない。