Up 「汚い身なり」の理由 作成: 2016-11-30
更新: 2016-12-02


    Siebold, Heinrich (1854-1908)
    原田信男他 訳注『小シーボルト蝦夷見聞記』(東洋文庫597), 平凡社, 1996.
     
    pp.39, 40
     身体の手入れに関しては、アイヌほどこのことに時間を費やさない民族は、まずいないだろう、と私は考えるようになってきた。
    ‥‥‥
    全身を洗うことは、たとえば漁携を行なう時や、川を歩いて渡る時のような機会にしか起こらないらしいのである。
    自分の身体を洗うことによって、きれいにしようとする心配りを、彼らは持ち合わぜていない。
    その上、まったく同じように、衣服や道具をきれいにすることも必要がない、と考えている。
    このため、煙で真っ黒になっているとか、他の何らかの理由で汚くなっていることが多く、たいていは見かけがとても宜しくない。

    Bird, Isabella (1831-1904)
    Unbeaten Tracks in Japan. 1880
    金坂清則 訳注 『完訳 日本奥地紀行3 (北海道・アイヌの世界)』, 平凡社, 2012.
     
    p.133
    人々は礼を失さないきちんとした身なりをしてはいるが、清潔なわけではない。
    女性は日に一回しか手を洗わないし、身体を洗うという観念はない。
    衣類を洗うこともなく、昼も夜も同じものを着ている。
    そのふさふさした黒髪がどうなっているのかと思うと心配になる。
    彼らはわが国の大衆がとても不潔なのと同じだと言ってよい。

    Batchelor, John (1854-1944)
    The Ainu and Their Folk-Lore. 1901
    安田一郎訳, 『アイヌの伝承と民俗』, 青土社, 1995.
     
    p.165
    ‥‥‥ 口と腕の黒く煤けた入れ墨、靴をはいていない足、櫛を入れていないばさばさの髪の毛、乏しく、だらしない衣服 ‥‥‥


    アイヌの身なりは,アイヌにとって完璧なものである。
    アイヌにとって,これが身なりの,理に適った形,過不足のない形である。

    ヒト以外の動物の身なりは,「機能的に過不足が無い身なり」である。
    アイヌの身なりは,これに準ずるものであり,自然である。
    翻って,近現代人の身なりは,異常である。

    例えば,ヒト以外の動物は,体を洗わない。
    (体を洗っているように見えても,それは体を洗っているのではない。)
    実際,体は,本来洗わないものである。


    生き物は,共棲している。
    そして,個体の体も,共棲の場である。
    個体は,体の表面・内部に,無数の生き物を棲まわせている。
    個体は,それ自体で生態系である。
    そして,生態系として定常均衡している。

    体の表面・内部に棲む生物は,個体に害をなす生物の侵入に対する防御になっている。
    「体を洗う」には,「外敵防御の生物を減じる」の含蓄がある。
    「歯を磨く」「薬を飲む」も,同様である──「外敵防御の生物を減じる」の含蓄がある。
    外敵防御の生物を減じた結果は,本来侵入が防がれていたはずの有害生物が侵入してくるというものである。


    ひとは,「清潔」のことばをもつと,この内容を過剰化する。
    「清潔」の理由で,体に棲む生物の駆除を,寄生生物の駆除として行う。
    体に生き物を棲まわせないように,身の回りの「除菌」に気をつかう。
    この「過剰」は,これをプロデュースしている者がある。
    それは,医療・医薬業界の商業主義である。

    商品経済では,<清潔>がバーチャルな存在になる。
    バーチャルな<清潔>は,「足る」が無い。
    ひとは,「過剰」の螺旋に嵌まっていく。

    この「過剰」の螺旋に嵌まった(てい)の者が,アイヌの身なりを見る。
    どんなリアクションになるか。
    「汚い」になるわけである。


    ここで重要なことを,述べる。
    「汚い」の言には,リスペクトと蔑視の2つ──正反対の二つ──がある。

    上に引用したシーボルトとバチェラーは,リスペクトの方である。