Up 「酷い住まい」の理由 作成: 2016-11-30
更新: 2016-12-02


    Siebold, Heinrich (1854-1908)
    原田信男他 訳注『小シーボルト蝦夷見聞記』(東洋文庫597), 平凡社, 1996.
     
    p.47
     小屋の中では、すべての物が煙で黒くなっている。
    そのことは別としても、全体がかなり不潔であるため、特に天気が悪く、すべての窓を筵で覆っている時には、小屋の中に居ることが非常に不快となる。
    また、どんな温度でも構わずに滞在する「小さな跳ねる住民」のノミはいつもいるが、暖かい季節には、類が友を呼ぶように、蚊やヤスデなどの煩わしい虫も家につく。
    しかし、(これらに非常に悩ませられる乳飲み子を別とすれば) 親切な母なる自然は、これらに対してアイヌをまったく無反応にさせてくれたようである。

    Bird, Isabella (1831-1904)
    Unbeaten Tracks in Japan. 1880
    金坂清則 訳注 『完訳 日本奥地紀行3 (北海道・アイヌの世界)』, 平凡社, 2012.
     
    p.133
    人家[チセ] にも(のみ)[タイキ] がうようよいる。 だが、日本の〈宿屋〉ほどにはひどくない。
    そして山間(やまあい)[内陸] の集落[コタン] は見かけ上は実に清潔で、[本州の村とは違って] 塵芥(ごみ)が散らかったり山積みになっておらず、肥溜(こえだめ)もない。 乱雑さは皆無である。
    悪臭も家の内外を問わずまったくない。 家の通気性がよく、煙で(いぶ)され、塩漬けの魚や肉は足高倉[プ] で保管されているからである。
    ただ、本来なら雪のように白いはずの老人たちの髪の毛と顎髭は、煙と汚れのために黄ばんでいる。

    pp.153,154
     この地のアイヌの家[チセ]は平取のものと比べるとずっと小さく、粗末で汚い。
    私は多くの家を訪れ人々と話をした。 人々の多くは日本語がわかる。
    一部の家はまるで獣の住みかのようだった。 ある家を訪れた時には雨が降っていたので、夫と妻そして五、六人の子供たちが[囲炉裏の]火の回りに集まっていた。 子供たちはみな裸で、よくもまあこんなに、と思うほど薄汚く、そのぼうぼうの髪の毛はまるで櫛を入れない小妖精の髪の毛のようだつた。
    しかし、見た目には汚くいやな臭いがするにしろ、炉端は家族団欒(だんらん)の場であり神聖である。 そしてみな煙で煤け汚くなっているこの群れは[紛れもなく]一つの家族、しかも、例えばソルトレークシティの社会生活などよりは進んだ生活を営む家族なのである。
    家の屋根は内陸(マウンテン)アイヌのものよりも勾配がずっとゆるい。
    倉[プ]がほとんどないので、たくさんの魚や「生」の獣皮、鹿肉などが垂木からぶらさがっており、それらの臭いと煙で眼がヒリヒリし、とてもつらかった。
    賓客のための座[上座]のある家はごく一部だけだったが、私が雨宿りを請うと、どんなに貧しい家であっても、人々は持っている一番上等の茣蓙(ござ)を床の上に敷き、「そうしていただくのがアイヌの習慣ですから」と言って、靴のままでその上を歩くように勧め、泥だらけの靴をはいている私を困らせた。
    どんなにむさくるしい家であっても幅の広い壇[宝壇、イヨイキリ]が必ずあり、日本の骨董品が並べであった。
    ‥‥‥
    この集落[コタン]で調べたことからすると、和人が近接しているのは[アイヌにとって] 有害であり、日本の文明との接触によって益のないまま不利益だけを被ってきたことは明白である。

    Batchelor, John (1854-1944)
    The Ainu and Their Folk-Lore. 1901
    安田一郎訳, 『アイヌの伝承と民俗』, 青土社, 1995.
     
    pp.117,118
     住む上には、小屋はもっとも快適な場所ではない。というのは、われわれの考えによると、この人種では、家の快
    適さは、まったく二次的に考慮すべき事柄だからである。もし人々が辛うじて生きられ、動物性の栄養物を手に入れ
    ることができるならば、彼らは満足である。
    彼らの村は遠方から見ると、実際まったく絵のように美しい。村は一般に川の土手に沿って存在している。
    そしてある地域では、個々の小屋はこぎれいで、美しく見える建物である。
    というのは、自分たちの家の屋根を葺くことに誇りをもりている人もいるからである。
    しかし絵のような光景と美しさは、近づいてよく見ると、消え去る。
    二、二一週か、二、三か月──二、二百か、二、二一分でも十分だと言う人もいる──それらの小屋の一つで過ごすと、日本の宿屋もそれに比べると、快適さの点では、天国のように思える。

     小屋は頑丈に作られていないので、小屋を吹き抜ける風は、ときにランプかロウソクの光をともし続けることができないくらいの速きである。‥‥‥
    アイヌの小屋は、冬には非常に寒い‥‥‥
    さらに干物の魚──そのなかには腐って屋根からぶら下がっていたものもあった──は、おいしそうな匂いを出すやところでなかった。
    煙もまた非常に迷惑なもので、日を刺激して、涙を流させた。
    ある地方の小屋は、夏には、カブト虫、ハサミ虫、およびその他のいやな見虫で一杯である。
    へビは、ネズミやツバメの巣を求めて、わら葺き屋根を訪れる。
    ノミは昆虫のなかでもっとも厄介なもので、白人の血を特に好むらしい。
    あるとき、私は朝起きたとき、私の体が刺し傷で一面に覆われているのを発見した。
    しかし奇妙なことをいうが、その晩以降、ノミは私になんら跡を残すことができなかった。
    アイヌの国を旅しようと思う人は、大量の殺虫剤をもって行くべきだ。


    アイヌの住まいは,アイヌにとって完璧なものである。
    アイヌにとって,これが住まいの,理に適った形,過不足のない形である。

    アイヌの住まいを考えるときは,狩猟・漁生活が移動生活であることを念頭におく必要がある。

    狩猟・漁は,時期があり,そして場所が時期に応じて変わる。
    狩猟・漁は,「朝に家を出て,夜に家に帰ってくる」の「出勤」ではない。
    それは,「遠出」である。
    現地でシェルターをつくるとき,それは「機能的に過不足が無い家」の実現である。

    アイヌのコタンの家は,狩猟・漁生活がコンテクストになっている家である。
    狩猟・漁の現地でつくる「機能的に過不足が無い家」の延長である。


    ヒト以外の動物がつくる住処/巣は,「機能的に過不足が無い家」である。
    アイヌの家は,これに準ずるものであり,自然である。
    翻って,近現代人の家は,異常である。

    「異常」の意味は,「過剰」である。
    近現代人は,「家」について「足を知る」を持てない。
    「足を知る」を無くしたものは,商品経済である。
    商品経済では,<豊かさ>がバーチャルな存在になる。
    バーチャルな<豊かさ>は,「足る」が無い。
    ひとは,「過剰」の螺旋に嵌まっていく。

    この「過剰」の螺旋に嵌まった(てい)の者が,アイヌの住まいを見る。
    どんなリアクションになるか。
    「酷い」になるわけである。

    ここで重要なことを,述べる。
    「酷い」の言には,リスペクトと蔑視の2つ──正反対の二つ──がある。

    上に引用したシーボルトとバチェラーは,リスペクトの方である。