フィールドワーカーは,つぎの二重の意味で,出てくるのが遅きに失する:
- アイヌは,既に終焉している
- アイヌ系統者の状況は,社会問題になっている
実際,バチェラーの時が,ラストチャンスである。
そして,彼のやり方だったから,フィールドワークが成った。
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泉靖一『フィールド・ワークの記録、文化人類学の実践』(1969), pp.4,5.
私はフィールド・ワーカーだとよくいわれている。
考えてみると、二十歳以後の私の生涯は、フィールド・ワークの連続であった。
しかし、私はほんとうにフィールド・ワークが好きなのか、またフィールド・ワーカーとして適しているのか、疑問である、という反省がこのごろ私の心のなかを去来している。
というのは、私にとって、フィールド・ワークにはつねに苦痛がともなう。
文化という漠然たる対象は、フィールド・ワークの場では、具体的な個人のよろこびや悲しみに直接つながっているし、発掘にさいしても現地の労働力なくしてはなんにも行なえない。
つまり、主体と客体がはっきりしていなければならない学問の世界に、人間関係がどうしてももちこまれてしまう。
天文学者が星や太陽に対するように、動物学者が鳥や魚をながめるように、文化人類学者が人間を観察し、記述することはむずかしいし、苦しいのである。
ただこの苦しさの程度は個人によって異なる。
いぜんは、私もさほど強く苦痛を覚えなかったが、次のような事件から、私のフィールド・ワーク観が変わってしまった。
昭和二十四年(一九四九) の夏のある日、北海道の十勝太にあるカラフト・アイヌ系の老女を訪ねて、カラフト・アイヌについて私のもっている学問上の疑問をただそうとした。
そのとき彼女は大声で私をどなりつけた。
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──おめたちは、カラフト・アイヌがどんな苦労をしているか、どんな貧乏しているかしるめえ、それにのこのこ、こんなところまで出掛けてきて、おれたちの恥をさらすきか? それとも、おれたちをだしにして金をもうけるきか、博士さまになるきか ! !
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私は雷光に打たれたよりも激しい衝撃をうけ、ただあやまって調査をせずに帰ってきた。
それいらい、アイヌ系の人びとにあうことが苦痛だし、フィールド・ワークを試みようともしない。
こんな考え方は、フィールド・ワーカーとしては不適当で、もっと説得し、もっと執念をもって、苦しくてもあきらめてはいけないのかもしれない。
ところが、私にはそれができないのである。
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