Up (にせ)アイヌ文化の流布 作成: 2016-12-08
更新: 2016-12-08


    「アイヌ文化の継承」のことばは,「アイヌ文化の現前」を含蓄する。
    実際は,アイヌ文化はとうのむかしに終わっている。
    アイヌは,百年以上もむかしの存在である。
    いま「アイヌ文化の継承」を唱えている者は,「アイヌ文化の継承」を(かた)る者である。


    「アイヌ文化の継承」を騙る者は,どこにいるか。
    「アイヌ文化研修/講座/教室」の講師として,いる。

    「アイヌ文化研修/講座/教室」の授業内容は,「アイヌ文化の実演」である。
    ロジックとして,アイヌ文化を実演できる者はアイヌである。
    そこで,「アイヌ文化研修/講座/教室」の受講生は,講師を「アイヌ」だと受けとめる。
    そして,講師の言うことを,真に受ける。
    実際,アイヌがこれがアイヌ文化だと言えば,それは疑いをはさむものではないわけである。

    こうして,「アイヌ文化研修/講座/教室」は,(にせ)アイヌ文化の流布の場である。


    「アイヌ文化研修/講座/教室」の講師は,どんな心理で,偽アイヌ文化流布の役を務めているのか。
    いろいろな位相がある。

    「アイヌ文化の継承」という純粋な動機でこの役に就く者もいる。
    しかし,やっていれば,いやでも欺瞞がわかってくる。
    ここで,2タイプに分かれる:
      a. 自分を騙す
      b. 確信犯的にやる
    確信犯の者も,考え方において凡そ3タイプに分かれる:
      b1. 世の中こんなもの
      b2. 降りるのも面倒
      b3. 引っ込みがつかない


    「欺瞞がわかってくる」とは,どういうことか。
    いまの時代の者が「アイヌ文化の実演」をやることは,無理矢理をやるということである。
    この<無理矢理をやっている>がわかってくるということである。

    「アイヌ文化の継承」は,「アイヌ系統者=アイヌ」をロジックにしている。
    これは,イデオロギーである。
    このイデオロギーにつく者は,「アイヌ文化の実演」を内容にする「アイヌ文化研修/講座/教室」の講師の声が自分にかかれば,引き受けねばならないと思う。
    引き受けないことは,「アイヌ系統者=アイヌ」イデオロギーにきずをつけることだからである。

    「アイヌ文化研修/講座/教室」の講師を引き受けることは,「アイヌ」を演じる役回りを引き受けることである。
    そして,アイヌ系統者はアイヌではないことを,身に染みて知ることになる。
    実際,「アイヌ文化の実演」は,自分でやればそのいかがわしさがいやでもわかるというものである。
    繰り返すが,アイヌは,百年以上もむかしの存在である。
    いまのアイヌ系統者は,アイヌ文化と無縁なことでは,一般者と同じである。


    例として,「アイヌ文化研修/講座/教室」で題材になる「アイヌ料理」を,取り上げてみる。

    これは,「アイヌ系統の者がつくる料理はアイヌ料理だ」のロジックで無理矢理「アイヌ料理」にしているというのが,実態である。
    そしてその中身は,「アイヌっぽい食材をつかっていればアイヌ料理だ」である。
    この「アイヌ料理」は,アイヌ系統者の家庭で出てくるものではなく,アイヌ観光地の料理店で出てくるものである。

    実際,アイヌ料理は,いまの時代にはつくれない。
    いまの時代につくれば,みな「まがいもの」になる。
    なぜか。
    料理は,「食事」という系の中にある。
    この系は文化である。
    そして,文化はつくれない。

    アイヌ料理・アイヌの食事とは,どんな系か?
    それは,つぎのような記述が示すところのものである:

    Siebold, Heinrich 1854-1908
    『小シーボルト蝦夷見聞記』, 原田信男他 訳注、平凡社〈東洋文庫597〉、1996
     
    p.85
    アイヌは、一種のスープを主食としており、鹿や熊やほかの野獣の干した肉か、もしくは、その新鮮な肉をいろいろな野菜や根菜といっしょに茹でて、スープを作るのである。
    このスープは、一日二回、すなわち朝と晩に食べる。
    川か海の岸に住んでいるアイヌは、干した魚も新鮮な魚も喜んで食べるし、それに必ずたくさんの酒も飲む。
    和人を通じて入手する米は、アイヌの食べ物の中では、きわめて副次的な役割しか演じない。
    彼らは稗のほうが好きであり、いくつかの種類を自分で作っている。
    貝やカニからも料理を作るが、調理法のせいで、食欲をそそるものではない。


    Bird, Isabella 1831-1904
    Unbeaten Tracks in Japan, 1880.
    金坂清則 訳注『完訳 日本奥地紀行3 (北海道・アイヌの世界)』, 平凡社, 2012
     
    p.118
    主な食物は「いろいろな忌まわしいもの」の汁 [ル] である。
    食物には塩魚、鮮魚や干し魚、海草、ウミウシや、集落の回りの荒れ放題の畑で背の高い雑草に混じって生えている種々の野菜や、各種根菜類、野苺や山葡萄、そして鹿や熊の生肉や乾肉がある。
    祭には〈酒〉を飲み、熊の生肉、海藻や種々の(きのこ)のほか、毒にならないものなら手に入る限りのものを汁 [ル] の具として食べる。
    それをかき混ぜるのには杓子[ ルカス] を用い、箸[イベパスイ] で食べる。
    決まった食事は日に二回だが、腹いっぱい食べる。

    p.140
    私は昨日[平取の] アイヌのもとを辞した。 着たきりで眠り、身体も洗えなかったためにとても疲れたのは事実だが、ほんとうに名残り惜しかった。
    ベンリ[ベンリウク] の二人の妻は、(ひえ)[アマム] を()いて肌理(きめ)の粗い粉にする骨の折れる仕事を早朝にすませ、私が出発する前に、その粉を()ねて薄汚れた指で形よく団子[シト] にまるめ、それを、「いろいろな忌まわしいもの」の汁[ル] を作る鍋[ルス]を洗いもせず、その中に入れて()でた。
    そしてできた団子を漆の盆[イタ]に載せ、食べてくださいといって差し出した。
    彼らの風習に従ったのである。


    Batchelor, John, 1854-1944
    The Ainu and Their Folk-Lore. 1901
    安田一郎訳, 『アイヌの伝承と民俗』, 青土社, 1995.
     
    p.182
    アイヌの食べ物は、どんな場合にもヨーロッパ人が好むものでないが、ちゃんと調理されれば、危急(ピンチ)の場合には歓迎されなくはない。
    たとえば新鮮なサケ、タラ、シカの肉、クマの肉、豆、アワ、ジャガイモ、エンドウ豆は、正しい仕方で料理されると、それ自体はすべておいしい。
    しかしアイヌは料理の仕方を知らない。
    彼らは、よく乾燥してない魚で強い味つけをしたシチューが大好きだ。
    ほとんどあらゆる種類の食べ物はシチュー鍋に投げ込まれ、少なくともわれわれの味覚によると、そこで完全に台なしにされる。
    しかし彼らの食べ物は必ずしもこのような仕方で料理されるのではない。 というのは、魚はときどき火のまえであぶられ、ジャガイモは炉の灰のなかで焼かれるからである。
    空腹な人には、このような物は、おいしく楽しい食事になり得る。

    p.184
    食べ物を皿に盛ることはない。
    主婦はシチュー鍋が火の上にぶらさがっているときに、鍋から食べ物をすくい、目指す人にそれを渡す。

    p.185
    アイヌは食べ物の扱いが清潔だとほめることはできない。
    彼らは深い鍋か平たい鍋をめったに洗わない。
    まして自分の食器を洗わない。