Up 二風谷の宿命 作成: 2016-10-17
更新: 2019-10-02


      砂澤チニタ (2009)
    私達アイヌ系の者は、現在もチセに暮らしながら狩猟や山菜取りをして暮らしているわけではない。普通に車に乗って CO2 を排出しまくり、普通に一軒家やマンションに暮らし、ただただ一般的な暮らしをしているに過ぎない ‥‥‥
    情けないのはそんな研究者や博物館やマスコミに乗じて、表面に出る時だけアイヌ衣装をまとい、根拠のない特権をふりかざしているアイヌ系の者の姿である。
    私は昔から「アイヌはやったもん勝ち」という言葉を引用してきた。 「個」ではなく、まず「アイヌ」ありきで生きているアイヌ系の者をそう呼んできた。
    差別やアイヌ文化の保存を叫んでマスコミから注目され、"タダの人" が「アイヌの人」として持ち上げられ、勘違いの上塗りを繰り返している。
    そして、いつしか「アイヌ」であることが職業となり、特権の理由となり、自らの手で新たな差別を造り上げてしまっている。

    「アイヌはやったもん勝ち」は,それで済むわけではなく,<アイヌを演じることを強いられる>に変わる。
    さらに,「アイヌはやったもん勝ち」に集団で乗ってしまったところは,<アイヌを演じることを強いられる>から抜けられなくなる。
    引っ込みがつかなくなるわけである。
    二風谷はこの場合である。


    (1)「アイヌはやったもん勝ち」
      鳩沢佐美夫 (1970). pp.187,188.
    ‥‥ この町内のとある地区がね、今、着々とそのアイヌ観光地として売り出そうとしているんだ。
    なんかね、とうとう──来るべきところまで来たっていう感じなんだ。
    昭和三十五年に、そのいわゆる "旧土人環境改善策" なるものを打ち出さなければならないんだ、という、不良環境のモデル地区、ね、写真入りで新聞に報道されたりした地域だ。──
    最近では、公営住宅や、またそれぞれの努力などで、十年前の家庭はほとんど姿を消してしまった。
    が、その生まれ変わったはずの聚落が、今度は俗悪なアイヌ部落の亜流化をくみとろうとしている!──。
    なぜ、景勝や古蹟の乏しい山林に、こういった特殊施設を、アイヌ自ら、しかも今日の時点において作ろうとするのかね──。
     ‥‥‥。
    そのことを彼たちに質すと、「アイヌがやらなければ、悪質なシャモ (和人) が勝手にアイヌの名をかたり、金儲けをするから」と言う。
    「じゃ、そういう悪質シャモの排除にこそ努めるべきでないか?」ときくと、「われわれも、そのことで潤っている」──。
    つまり、観光のおかげで部落もよくなり、業者からピアノも贈られた (小学校)。
    何十万とかの寄付もあった──と、並ベたてられる。
    「今それをやめろというのなら、じゃわれわれの生活をどう保障する」と逆襲さえしてくる始末。
    そして、ね、これまで自分たちは観光業者に利用されて各観光地に立っていた。 だから、どうせやるんなら、そんな他所の土地で、シャモに利用されるんでなく、自分たちの部落でやったほうがいいのだ──という割切り方。
    しかもだよ、ジョークなのか、アレゴリーなのか、昔はアイヌといって、われわれはバカにされた。 今度はひとつ、われわれアイヌを見にくるシャモどもをふんだまかして、うんと金をまきあげてやる。 「なあに、適当なことをやって見せれば、喜んで金を置いていくからな」‥‥‥。
    ね、ドライというか、くそくらえバイタリティというか、とにかく、見上げたショーマンイズム──。

      二風谷部落誌編纂委員会 (1983), pp.233-239
     二風谷上地区の民芸品街が現在のように形づくられ始めたのは、昭和40 [1965] 年からである。この年日勝峠が開通した。前年の東京オリンピック開催で日本はようやく国際的に他国と肩を並べられるまで戦後の経済は復興して、日本に旅行ブーム,レジャーブームのきざしが現われた頃である。
     利にさとい二風谷の人々は、逸早くこの旅行ブームに目をつけ、日勝道路が開通すると、国道沿いにアイヌ民芸品店を作って商売することを考えついた。まず、貝沢勝男が長野浅次郎の土地の一部と自分の水田を交換して現在地を手に入れ、当時は一面の湿地帯であったこのあたりに土盛りをして、今資料館前信号機のあるあたりに雑貨店を開業した。
     その次に貝沢保が現在軽食喫茶「花梨」の所に「ユーカラ食堂」を開店した。そこで貝沢正がバラック建ての民芸品販売用貸店舗を建てたので、ここに最初の二風谷民芸品店ができた。昭和43 [1968] 年にはドライブインピパウシが開店し、昭和46 [1971] 年松崎商店も現在地に移転。その間に、萱野茂、貝沢末一、貝沢つとむ、貝沢はぎ、貝沢守雄などの貸店舗や民芸品店が軒を並べて、今日の二風谷商店街の基礎を作った。観光客の増加に伴い昭和48年に二風谷観光センター(静内資本)、昭和49 [1974] 年に民宿「チセ」(貝沢薫) が開業したが、現在は観光センターは休業している。
     昭和45 [1970] 年から始まった8月20日のチプサンケ祭りの夜は、毎年この商店街前の広場で懸賞付盆踊り仮装大会も開くようになり、昭和53年には、町の一部補助と各戸の負担金によって商店街前の広場も舗装された。
     ‥‥‥
     二風谷での木彫熊生産は、昭和37 [1962] 年旧生活館に旭川から千里敏美を講師によんで希望者に受講したのが始まりだが、昭和46 [1971] 年には新しい生活館 (現在のもの) ができたため、古い生活館は、第2共同作業所として転用され、ここで二風谷民芸が生産されはじめた。この共同作業所 (昭和50 [1975] 年焼失後、現在地に今の大型共同作業所が建設された) の山手側に、二風谷アイヌ文化資料館が着工、昭和43 [1968] 年には金田一京助歌碑も建設されているところから、国道から資料館に向かう舗装道路入口両側にも民芸品店や観賞石販売店が軒を連ねるようになった。
     ‥‥‥
     アイヌは日用品のほとんどを木や木の皮からつくり、木製用品には木彫、衣装には刺しゅうをほどこす習慣だった。明治になって資本主義経済が北海道にも本格的に流れ込み始めると、明治26年(1893年) 貝沢ウエサナシ (貝沢正・与一・辰男・青木トキ兄妹の祖父、貝沢みな子・定雄・隆司姉弟の祖父、貝沢耕一の曽祖父、霜沢百美子の外曽祖父)、貝沢ウトレントク (貝沢勉・薫・美枝兄妹の祖父) がクルミやカツラ材でアイヌ文様を彫り込んだ盆や茶托を作り札幌で販売しているが、これが二風谷民芸品の始まりといっていい。ウトレントクは大正3年(1914年)、ウエサナシは昭和14年(1939年) に亡くなったため,その後は貝沢菊治郎がパイプの製作・販売をするくらいで、自分たちの伝来の技術を生かして金に換えようと考える者はいなかった。
     その点に着目したのが萱野茂である。昭和20年代には、全国の小学校生徒にアイヌの生活や踊りを見せる巡業に村人を引率参加して、北海道以外の人々の生活や観光地を垣間みて歩きアイヌ民具が高く売れることを知って、昭和28年頃から自らカツラやクルミで茶托やお盆の製作に着手し、その後の二風谷アイヌ民芸、アイヌ観光の先鞭をつけた。
     ‥‥‥
     このように幕末から明治時代にかけて、すでに婦女子の仕事として現金収入の中にアットゥシ織は大きな位置を占めていた。
     明治28年生まれの貝沢へかすぬなどもシナ皮をとってきでは織り、カロップ (火打ち道具などを入れた小型の袋) に加工しては売っていた。
     専業に織って販売網を広げたのは、貝沢はぎ、貝沢みさをで、昭和20年代末からは旭川市の民芸社が大量の買いつけをするようになってきた。
     やがて昭和30年代後半から民芸品ブームが起こり、造りさえすれば何でも売れる時代が来た。これといった現金収入がなかった村では今まで女の仕事だったシナ皮取りが男の仕事になり、糸をつむぐもの、織る者と二風谷を中心にアットゥシ織が大量生産され、婦女子は夜も寝ないで働いた。二風谷の暮らしがよくなった基礎は、アッ卜ゥシと婦女子の力によるといっても過言ではない。
     原料になるシナ皮の木を近辺でとりつくすと馬車や車で遠くまでシナ皮はぎに出かけることになった。シナ皮をはぐ期間は夏の間のわずかの期間でしかないが、木の皮が全部むかれると木が枯れてしまう。昔はどこの山でも自由にとれたが、木の皮は一部しかはがなかったので、木が枯れることはなかった。しかし、現金収入の道に血まなこになる時代になると昔の信仰──はいだ木の着物に帯をしめ供物をささげて感謝する風習──は忘れられ、木の身ぐるみをすべてはいでしまったので、国有林には白く皮がはがれたシナの木が目立ちはじめ盗伐問題が起きて来た。振内、厚賀、鵡川の各営林署から平取町役場に抗議がくるようになった。二風谷を中心とした人々の生活の問題でもあり、町としても放置できず対策がすすめられた。
     昭和44 [1969] 年10月「アツシ織生産組合」が設立され、組合員は他人の山でシナ皮を取らないこと,皆伐の山を世話してもらい共同で原料のシナ皮を確保することを申し合わせた。
     賛同者は94人で、設立総会で組合長二谷貢、副組合長貝沢ハギ、貝沢しづ、庶務会計黒田浪子を選んだ。損害を与えた山の木の代金として、12万5千円の特志寄附を集めたら、合計23万5千円が集まり、木代金を払った残りを組合の運用資金とした。
     町役場と連絡を取りながら皆伐予定地の山で、木代金を払って共同採取をするようになった。以来盗伐はなくなったが、しかしアツシ原反の売れゆきは落ちこんでしまい、各家庭から聞こえたハタ織の音は消えてしまった。
     今は、国道沿いの民芸品店の店先で実演販売されていたり、年輩の女性の冬期作業で織られた製品が店先で花びん敷などとして切り売りされている。


    (2) <アイヌを演じることを強いられる>

    二風谷は,「そこに行けばアイヌがいる──アイヌの生活がある」という観光サイトになった。
    そしてこのようなサイトは,二風谷が唯一である。
    北海道観光にとって,二風谷がこの役回りから降りるようなことはあってはならない。
    こうして二風谷は,この役回りを宿命づけられる。

      平取町 (2019a)
     国は、アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会からの報告書をもとに、福祉分野を含む総合的なアイヌ民族政策を具体化するための作業を進めています。
     当町においては、「平取町アイヌ文化振興基本計画」を指針として、平取町アイヌ文化振興推進協議会、平取町地域活性化協議会での協議を重ね、「平取町地域再生計画」の各種事業の様々な組み合わせによるアイヌ文化振興をはじめとした総合的な政策の実施により、「地域資源をいかした持続的な産業創造」を図り、2020年に一般公開される民族共生象徴空間の「広域関連区域」としての当町の役割を果たしながら、生業に結びつき息づくアイヌ文化の継承と生活基盤の安定を目指します。
     また、アイヌ子弟の教育支援対策として北海道などが支援している高校及び大学等の修学援助について、申請などを円滑に進めるため事務の支援を行うとともに、雇用対策と技術習得を図る機動職業訓練の受託についても業務が円滑に進むよう支援してまいります。
     併せて、住宅環境改善対策として、住宅改良資金貸付金を引き続き予算計上したところであります。
     アイヌ文化振興・研究推進機構が、当町で先行的に進めているイオル再生事業については、これまでの事業実施経過について、高い評価を得ております。
     同機構が定める平成28年度から平成32年度の「中期的展開方針」では、当町での各種事業が計画されており、この方針に沿って、関係機関・団体と十分な連携を図りながら、事業を展開してまいります。
     また、伝承活動の基盤として整備している「コタンの再現空間」・「イオルの森」・「水辺空間」においては、体験交流事業などを通じて多くの方々がアイヌの伝統文化に親しめるような事業を実施してまいります。
     アイヌ文化環境保全対策事業については、北海道開発局から引き続き受託する沙流川流域地域文化調査業務を柱として進めていく予定となっておりますが、平取ダム本体工事の進捗と並行して文化環境の保全対策に向けた取り組みが本格化していることから、このための業務を関係団体と連携を強めながら精力的に推進してまいります。
     また、貴重な文化的所産と文化資源の保全活用を図る一環として、「AOTORA」をはじめとする石資源についても平取アイヌ協会及び関係機関との協調のもとに調査を進めながら保全・活用を検討してまいります。
     平取町アイヌ文化情報センターにおける情報発信機能については、従来のイオル再生事業及び博物館等のアイヌ文化資料の情報発信に加え、引き続きアイヌ文化博物館と連携し、海外ゲストとの文化交流の場としても積極的に活用するとともに、北海道初の伝統的工芸品や地域文化保護・保全対策についての情報発信の充実に努めます。
     シシリムカ文化大学は、町民などが体系的・継続的に学習を重ねアイヌ文化への理解の促進と普及啓発を図ることを目的に開講し定着化が図られておりますが、貴重な伝統文化を次世代へ確実に継承するために、幅広い層の学習参加となるよう、さらに充実を図ってまいります。
     また、現地体験宿泊型「大地連携ワークショップ」を引き続き開催することで、道内をはじめ道外の大学生及び大学関係者に対し、広くアイヌ文化を理解してもらうとともに、町のPRや普及啓発の取り組みを進めてまいります。
     二風谷地区のアイヌ伝統的工芸技術は、高い評価を得て現在も受け継がれておりますが、伝統工芸家は減少し、後継者の育成が喫緊の課題となっています。
     平成25年3月に「二風谷イタ」と「二風谷アツトウシ」が経済産業省から北海道初の「伝統的工芸品」の指定を受け、国・町の支援のもとに後継者の創出や需用開拓などを実施していますが、平成30年度より新たに町独自の人材育成制度を実施し、工芸品の販路拡大や後継者の育成を図ります。
     また、平成29年度に建設に着手した新・平取町民芸品共同作業場については、平成30年度に外構工事、木工機械等の設置などを進め、伝統工芸品の製作過程の実演・展示、体験交流、伝統技術・技法の継承と工芸家の育成、アイヌ伝統工芸品の製作及び新たな工芸品の開発・製作の場として活用し伝統工芸に係る産業の振興を図ります。
     また、「二風谷アイヌ文化博物館」・「萱野茂二風谷アイヌ資料館」と民芸店を結ぶ地域を「匠の道」と命名し、着地型観光の形成による販売促進の基盤づくりも行っており、さらなる伝統的産業の振興を図るべく予算計上したところであります。

      平取町 (2019b)
    町長「‥‥‥5点目に、アイヌ文化の総合的な伝承と理解を目的とした伝統的生活空間(イオル)の整備について、このことにつきましては、平取町は平成20年度から先行実施しておりますが、継続して予算増額を要望してございます。
    6点目に民族共生象徴空間「広域関連区域」としての平取町の役割につきましては、平成27年の10月に報告されました第7回のアイヌ政策推進会議の作業部会報告として、白老町以外のアイヌ文化の伝承活動等が盛んな地域として平取町が位置付けがなされているところでございます。2020年の象徴空間完成時には、100万人の来場者を見込むとのことでございますが、象徴空間の主として文化伝承、人材育成、あるいは体験交流に役立つ人材育成並びに食文化に必要な原材料について象徴空間等へ供給することで、その役割を担うことが実現できるように要望したところでございます。」

      内閣府 (2019), 「北海道平取町」の項目
    交付対象事業 交付決定額
    (単位 : 千円)
    アイヌの人々の心の拠り所となる精神文化の拠点(慰霊塔)の整備
    博物館所蔵資料のうち主な民具を高解像度で撮影し台帳・図録をデータ管理
    アイヌ工芸体験交流事業(木彫や織物、レーザー彫刻機など体験メニューを実施)
    観光プロモーション実施のための調査、基本構想等の作成
    イベントにおいて、木彫り体験等を実施
    アイヌ文化に触れてもらうきっかけづくりとして、謎解きイベントなどを実施
    アイヌ文化+食や温泉といった観光コンテンツを回遊してもらう仕組みを作成
    2021年のジャパンハウス(ロンドン)におけるアイヌ文化発信のための準備
    アイヌ文様ラッピングを施したバスを生活館等を拠点に2地区で運行
    アイヌ工芸家等の育成研修施設(イオル文化交流センター)の整備(基本設計)
    新たなアイヌブランドの開発・製造のためのレーザー彫刻機等の導入
    アイヌ文化のブランド化推進(商品の試作や、販売のための市場調査)
    21世紀・アイヌ文化伝承の森プロジェクト(国有林野内での育成状況の調査等)
    フィンランドの少数民族との交流
    中学生及び平取高校生を対象とした公営塾の運営
    102,720