Up 観光"アイヌ" が「アイヌの代表」に : 要旨 作成: 2017-01-04
更新: 2017-01-04


    アイヌ終焉後も,和人のアイヌに対する固定観念は,しばらく続く。
    アイヌ系統者は,この固定観念に遭うとき,「そんなアイヌはもういない──自分はそんなんじゃない」を主張する者になる。

     知里真志保 (1909-1961)
     『アイヌ民譚集』(1937), 岩波書店 (岩波文庫), 1981.
     
    p.167
     普通にいわゆる「アイヌ」という概念は, 厳密にこれをいうならばよろしく「過去のアイヌ」と「現在(および将来)のアイヌ」とに区別せらるべきである.
    人種学的には両者はもちろん同一であるにもせよ, 各々を支配する文化の内容は全然異る.
    前者が悠久な太古に尾を()く本来のアイヌ文化を背負って立ったに対し,後者は侮蔑と屈辱の附きまとう伝統の殻を破って,日本文化を直接に受継いでいる.
    だから,「過去のアイヌ」と「現在(および将来)のアイヌ」との間には, 截然たる区別の一線が認識されなければならないのである.
    普通に「アイヌ生活」とか「アイヌ民俗」とかいえば,必然的に「過去のアイヌ」の生活や習俗を意味すべきはずなのに, とかく「現在のアイヌ」のそれのごとく誤解されがちなのは, 当然に区別さるべき二概念が,「アイヌ」なる一語によって、漫然と代表せられていることに起因する.


    しかし,その固定観念への迎合を内容とするビジネスが興る。
    「アイヌ観光」業である。
    そして,アイヌ系統者のうちから,「アイヌ」を演じて収入を得ようとする者──観光"アイヌ" ──が現れる。

    そんなアイヌはもういない──自分はそんなんじゃない」でやっていくことにしたアイヌ系統者は,観光"アイヌ" によって足をすくわれる格好になる。
    彼らは,観光"アイヌ" に反発する者になる:

     違星北斗 (1901-1929)
     『違星北斗遺稿 コタン』(草風館, 1995)
     
    白老のアイヌはまたも見せ物に 博覧会へ行った 咄! 咄!!
    白老は土人学校が名物で アイヌの記事の種の出どころ
    芸術の誇りも持たず 宗教の厳粛もない アイヌの見せ物
    見せ物に出る様なアイヌ彼等こそ 亡びるものの名によりて死ね
    聴けウタリー アイヌの中からアイヌをば 毒する者が出てもよいのか
    酒故か無智な為かは知らねども 見せ物として出されるアイヌ

     鳩沢佐美夫 (1935-1971)
     『沙流川─鳩沢佐美夫遺稿』, 草風館, 1995.
     
    pp.187,188.
    で、そういったことでさ、この町内のとある地区がね、今、着々とそのアイヌ観光地として売り出そうとしているんだ。
    なんかね、とうとう──来るべきところまで来たっていう感じなんだ。
    昭和三十五年に、そのいわゆる "旧土人環境改善策" なるものを打ち出さなければならないんだ、という、不良環境のモデル地区、ね、写真入りで新聞に報道されたりした地域だ。──
    最近では、公営住宅や、またそれぞれの努力などで、十年前の家庭はほとんど姿を消してしまった。
    が、その生まれ変わったはずの聚落が、今度は俗悪なアイヌ部落の亜流化をくみとろうとしている!──。
    なぜ、景勝や古蹟の乏しい山林に、こういった特殊施設を、アイヌ自ら、しかも今日の時点において作ろうとするのかね──。

    そのことを彼たちに質すと、「アイヌがやらなければ、悪質なシャモ (和人) が勝手にアイヌの名をかたり、金儲けをするから」と言う。
    「じゃ、そういう悪質シャモの排除にこそ努めるべきでないか?」ときくと、「われわれも、そのことで潤っている」──。 つまり、観光のおかげで部落もよくなり、業者からピアノも贈られた (小学校)。 何十万とかの寄付もあった──と、並ベたてられる。
    「今それをやめろというのなら、じゃわれわれの生活をどう保障する」と逆襲さえしてくる始末。
    そして、ね、これまで自分たちは観光業者に利用されて各観光地に立っていた。 だから、どうせやるんなら、そんな他所の土地で、シャモに利用されるんでなく、自分たちの部落でやったほうがいいのだ──という割切り方。
    しかもだよ、ジョークなのか、アレゴリーなのか、昔はアイヌといって、われわれはバカにされた。 今度はひとつ、われわれアイヌを見にくるシャモどもをふんだまかして、うんと金をまきあげてやる。 「なあに、適当なことをやって見せれば、喜んで金を置いていくからな」‥‥‥。
    ね、ドライというか、くそくらえバイタリティというか、とにかく、見上げたショーマンイズム──。


    観光"アイヌ" になる者は,アイヌ系統者のほんの一部に過ぎない。
    アイヌ系統者のほとんどは,「そんなアイヌはもういない──自分はそんなんじゃない」の道を進む者である。 そして彼らは,見えない存在になる。
    こうして,"アイヌ" は,観光"アイヌ" だけになる。

    和人のアイヌに対する固定観念は,観光"アイヌ" を以て充足された。
    そしていまや,観光"アイヌ" が「アイヌ」の意味になる。
    観光"アイヌ" の存在を以て「アイヌ」はいまも存在するものになる。

    観光"アイヌ" は,生計を維持する必要から,利権"アイヌ"化する。
    利権"アイヌ" は,利権を維持・拡大する必要から,政治"アイヌ" になる。
    そして政治"アイヌ" は,「アイヌの代表」を騙る者になる。