Up | アイヌ語は,アイヌの生活と相即不離 | 作成: 2017-01-09 更新: 2017-01-09 |
彼らは,きちんと注意されたことがないから,図に乗ったままになるのである。 一般アイヌ系統者をダシにし,つぎは子どもをダシにしようとする。 彼らは,「否」の声が上がるおそれのない者たちを,つぎつぎとダシにしていくのである。 「アイヌ語教育」を唱える者には,2通りある。 確信犯的に唱えている者と,無邪気に唱えている者の,2通りである。 利権"アイヌ"は,前者である。 「アイヌ語教育」など成るものでないことは,己を見てわかるからである。 後者はというと,贖罪"シャモ" がこれになる。 「アイヌ語が継承されている」「アイヌ語の継承は政治で成るものだ」と無邪気に思う者たちだからである。 「アイヌ語」を考えられることは,《アイヌ語がどこでどう使えるものになるのか》を考えられることである。 「アイヌ語教育」を無邪気に唱える者は,《アイヌ語がどこでどう使えるものになるのか》の問いを持たない/知らない者である。せいぜいよくて,この問いに思考停止している者である。 Wikipedia で「アイヌ語」を引くと,つぎの説明がある:
そこで,「アイヌ語教育」を唱える者たちに,「さあ,これをアイヌ語にしてみろ」と言ってやるのである。 彼らは,これをアイヌ語にすることは,できない。 彼らはもとよりアイヌ語を知る者ではないが,これが理由ではない。 この文は,原理的に,アイヌ語にはならないのである。 上の日本語文は,外来語および造語がほとんどを占める。 この外来語・造語が日本語として定着するのには,長い時間を要している。 また,この日本文は,構文を所謂「古典論理学」に乗せている。 「古典論理学」は,古代ギリシャや中国出自の論理学が時間の流れの中で練られて,この形になったものである。 アイヌ語は,この歴史とは無縁の言語である。 よって,日本語で論じていることをアイヌ語で論じることは,できない。 これは,いまの生活の中にアイヌ語の所在は無い,ということである。 実際,アイヌ語は,アイヌの生活の中でしか言語にならない 「アイヌ語の授業」がつぎの調子で始まる:
そもそも,英語の授業だとふつうに出てくる「日本語の「○○」は英語では「△△」」(「○○」は単語) も,アイヌ語では成り立たない。 日本語 (英語) とアイヌ語は,カテゴリーのつくり方がまったく違っているからである。 「「木」はアイヌ語では△△」」「「川」はアイヌ語では△△」」などアタリマエに言えそうに思えるが,言えないのである。 |