Up | 「アイヌ語教育」: 要旨 | 作成: 2017-01-04 更新: 2017-01-04 |
しかし,アイヌ語は,既に絶えており,過去のものである。 アイヌ語ができる者は,いない。 政治"アイヌ" は,公教育に「アイヌ語教育」を含めることを主張している。 アイヌ語ができる者がいない「アイヌ語教育」は,どんなものになるか。 「アイヌ語ができる」を騙る者の,インチキ授業になる。 しかし,インチキ授業であれ,巨大な雇用創出になる。 "アイヌ"利権の飛躍的拡大である。 「アイヌ語教育」を唱える者は,確信犯的にこれを唱える者と,無邪気にこれを信じて唱える者の,2通りがある。 確信犯的に唱える者は,アイヌ語のできる者がいないことを承知している者である。 無邪気に信じて唱える者は,アイヌ語のできる者が当然いると思っている者である。 アイヌ語のできる者が当然いると思っている者は,批判的な「アイヌ語ができる者はいない」には聴く耳を持たない者である。 そこで,"アイヌ" に最もベッタリのシンパであった本多勝一の言から,「アイヌ語ができる者はいない」を引き出すとしよう: 本多勝一「アイヌ民族復権の戦い──野村義一氏の場合」,1989. 『先住民族アイヌの現在』, 朝日新聞社, 1993. pp.101-136.
いま「アイヌ語」を表すものは,地名とか,ユーカラの筆録とか,アイヌ語辞典とかである。 そしてこれらは,アイヌ語ではなく,アイヌ語の化石である。 言語は,生活があっての言語である。 アイヌ語の化石が言語でないのは,生活が無いからである。 そして,言語と生活は,一つである。 言語aとその生活A,言語bとその生活Bに対し,言語aと生活B,言語bと生活Aという組み合わせは,成立しないのである。 言語が無くなる時は,<捨てる>によって無くなるのではない。 <用を足さなくなり,よって使わなくなる>で,無くなるのである。 アイヌ語は,このようにして絶えた。 ──本多勝一が信じているつぎのようにではない。
なお,上の本多勝一の言でいちばんげんなりさせられるのは,「何万年と生きてきた一つの言語文化が‥‥‥」のくだりである。 本多勝一は,「何万年と生きる言語文化」があると思っているわけである。 もっとも,「アイヌ先住民族」を唱えている "アイヌ" は,「アイヌ民族=何万年と生きてきた民族」を掲げていることになるわけで,よって,これにベッタリでいられる本多勝一のアタマは,「何万年と生きる言語文化」を言い出すアタマでなくてはならないわけである。 |