Up アイヌの同化 作成: 2019-01-02
更新: 2019-01-02


      高倉新一郎 (1959 ), pp.200-204
    箱館奉行は蝦夷の人口が著しく減少したことに注目し、
    従来蝦夷の介抱使役は請負人に任せであったのを、奉行所の直管とし、
    請負人が蝦夷を使役する場合は日数・仕事の種類及び人数を定めて借受させる形をとり、
    その報酬は官に納付し、官からこれを蝦夷に支払うという形式をとった。
      また請負人や出稼ぎが蝦夷を虐使することを防ぎ、場所支配人・番人等が夷女を妾にすることを禁ずると共に、妻子を伴って赴任することを奨励し、蝦夷は広く他場所の者と結婚するようにすべきことを図ったりした。
    又蝦夷の健康にも注意し、
    妊婦を保護し、出産を奨励する策を立て、
    小児がほとんど裸体で育てられて死亡率の高いのを見て、安政五年から毎年七歳未満の小児へは綿入一枚を与えることにした。
    ことに安政二年、幕府が蝦夷地直轄に着手し始めると、又疱瘡の流行を見、蝦夷は山中に難を避け、蝦夷地の経営に差支えさえ見せたので、種痘医師数名を雇って、安政四・五両年にわたり東西蝦夷地を巡回させ、種痘を行なった。
    種痕術が我が国に輸入されたのは文化四 [1807] 年ロシヤ船が擇捉島を襲った際捕えられ、同九年に送還された同島番人五郎治が、ロシヤ滞在中に学んで帰ったのが最初だといわれているが、こうした広い範囲にわたって、多数の者に、ほとんど強制的に施行したのはこの時が最初だった。
    こうした配慮が効を奏したのであろう、蝦夷の著しい人口減少傾向は停止し、明治初 [1968] 年の調査を安政元 [1854] 年のそれに比較すると、むしろ増加をさえ見ている。
    しかし、蝦夷の労力は北海道の開発経営の上に以前程大きな役割を持たなくなった
    ことに、和人の増加が著しく蝦夷の人口が衰退しつつあった西蝦夷地の南部では、わずかに運上屋に雇われてその庇護によって生活する有様だった。
    例えば小樽内場所において、蝦夷は請負人の経営する四ケ統の建網鰊漁に二日手伝に出ると、一日はその網でとれた鰊で自家用の干魚を製造することを許されており、また場所内の刺網は自由にこれをはずして鰊をとってもよいことになっていたが、
    請負人が廃されて村並みになると、建網業者から建網一ケ統からタモ網に二つか三つの鰊をもらって自家用に製造することになった。
    蝦夷が蝦夷地産業の主役から、それに寄生してよくやく生命をつなぐ者に転落して行きつつあったのである。
    蝦夷と和人との差も失われつつあった
    幕府は蝦夷の衣・食・住すべてを和人化することに留意し、
    従来の異習をできるだけ改めさせようとし、
    風俗を攻め名を改めた蝦夷は帰俗土人と称し、和人同様に待遇し、
    給料も蝦夷は玄米だったが帰俗の者には白米を与え、
    ことに役土人は役名を日本風に改め、総乙名を庄屋、惣小使を惣年寄、脇乙名を惣名主、乙名を名主、小使を年寄、土産取を百姓代と呼び、
    名主以上は裃、年寄・百姓代は羽織・袴の着用を許し、
    オムシャや目見得の時は特別の待遇を与えた。
    すなわち年一度、各場所順番に役土人が箱館に上り、奉行所に挨拶する昔のウイマム、当時の謁見礼の際などは、
    未帰俗蝦夷は庭前に土下座させられ、下賜品なども陣羽織・台盃など蝦夷好みのものを主としたが、
    帰俗役土人は町役人と同様畳の上に招ぜられ、下賜品も、麻裃・縞木綿・盃等が与えられた。
    オムシャでも同様であった。
    今諸書によって安政五年当時の帰俗土人数を見ると、大体次のような有様であった。
    場所名 蝦夷人数 帰俗土人数   割合   出典   
    積丹291551.7観国録
    美国18316.7観国録
    余市49129560.1蝦夷日記
    忍路1279776.4蝦夷日記
    高島671319.4蝦夷日記
    小樽内983929.6蝦夷日記
    石狩543203.7蝦夷日記
    浜増毛202209.9蝦夷日記
    増毛912931.9蝦夷日記
    留萌1933116.7蝦夷日記
    苫前1162622.4蝦夷日記
    天塩269207.5蝦夷日記
    宗谷3696417.3蝦夷日記
    紋別672456.7蝦夷日記
    根室61443070.0蝦夷日記
    厚岸2164214.9協和私役
    釧路1306463.5協和私役
    十勝1324200.2蝦夷日記
        蝦夷日記:後藤茂吉「蝦夷日記」
    場所によっては行過ぎて、後藤茂吉「蝦夷日記」に戻った所もあったようであるが、 多い所は大部分が最早蝦夷ではなくなっていたのである。


    引用文献
    • 高倉新一郎 (1959 ) : 『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959