Up 北方事情 作成: 2018-12-14
更新: 2018-12-20


      吉田常吉 (1962), pp.284-286
    ‥‥ 外国船がしばしば蝦夷島の近海に出没するようになった。
    それは蝦夷島をふくむ北太平洋の地理が最もおそくまで不明の中に残されていたからである。 諸外国船の出没はこの地理上の探検によるものであった。
    しかし最も憂慮されたのはロシアの南下であった。
    工藤平助は『赤蝦夷風説考』を著わして北辺の防備を説いた。

      高倉新一郎 (1974 ), pp.20,21
    松前藩の勢力が蝦夷地に伸びると、ここで外国の勢力と接することになった。
    樺太島はすでに十四世紀の元の時代から中国の勢力が及んでいたが、十八世紀には満州の勢力が、黒龍江下流に住む人々 (山担人) を通じてその北部に及んでいた。
    千島方面では十七世紀の終わりに、シベリアを横断しカムチャッカを征服したロシアの勢力が千島列島沿いに南下し、十八世紀の終わりには得撫(うるっぷ)島を根拠に、松前に向かって通商を望んできた。
    また十六世紀中頃からすでに北海道に着眼していたが鎖国政策によって中絶せざるを得なかったヨーロッパの関心が英仏両国によって再びこの方面に向けられ始め、探検船が派遣されるようになった。
    我が北辺は急に多事になった。



    引用文献
    • 吉田常吉 (1962) :「蝦夷地の歴史」
      • 吉田常吉[編], 松浦武四郎『新版 蝦夷日誌(下), 時事通信社, 1962, pp.279-306.
    • 高倉新一郎 (1974 ) : 『日本の民俗 1北海道』, 第一法規出版社, 1974