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吉田常吉 (1962), pp.297-288
松前氏時代の海岸の交通
松前藩時代、蝦夷地には道路がなく、多くは船で往来し、陸路を通る時は、海岸か川沿いの平地を辿るのが便利であった。
松前から東蝦夷地に行くには、茅部峠から大沼の北を経て森に出て、海岸を辿って行く。
東蝦夷地は比較的平坦であったけれども、口には礼文華の険があり、奥には様似・幌泉間、庶野・広尾間、仙鳳趾・厚岸間、などの難所が打続いていた。
礼文華の険および仙鳳趾・厚岸間の難所は船で渡ることができ、その他の難所は、平穏な日に退潮を窺い、岩礁を伝ってようやく通過することができた。
海の荒れる時は幾日も滞在しなければならなかった。
旅行者は会所・番屋や蝦夷小屋に泊り、時には丸小屋に野宿しなければならなかった。
西蝦夷地では江差から石狩に至る通路は難所の連続で、太田・持田・雷電・神威、などがあり、さらに進んで雄冬雄冬の険があった。
旅行者はこれに会うごとに船で渡らなければならなかった。
波の激しやすく、避難場所のない岬角は、航海者にとって最大の難所であった。
これらの難所を通過する時、航海者は帆を下し、洗米・神酒・絵馬・幣などの供物を捧げ、謹慎して通る有様であった。
しかし増毛から以北は平坦であったから、海岸伝いに遠く斜里まで歩行することができた。
内陸の交通
また陸地を横断して東西海岸を結ぶ交通路は、
遊楽部と瀬田内との間、
長万部と歌棄との間、
勇払と石狩との間、
それと石狩から上川のタナシに出て天塩に越える線、
十勝から富良野を経て上川に出る線、
釧路および根室から斜里に到る線
などがあって、その内、河川を利用できるところは丸木舟で上下した。
中でも重要なのは勇払・石狩を結ぶ線で、石狩川とその支流千歳川の沿岸は豊富な天産に恵まれていたので、蝦夷の部落が多く散在し、その富源を利用するため和人の出入も多かった。
要するに松前藩時代の蝦夷地は全く未開の地で、開鑿した道路も、架設した橋梁も、宿舎も馬匹もなく、わずかに蝦夷を雇って道案内とし、夷家に宿り、夷舟に棹して行くほかはなかったので、和人の往来はすこぶる困難であった。
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引用文献
- 吉田常吉 (1962) :「蝦夷地の歴史」
- 吉田常吉[編], 松浦武四郎『新版 蝦夷日誌(下), 時事通信社, 1962, pp.279-306.
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