Up アイヌのリアクション 作成: 2019-01-01
更新: 2019-02-27


      窪田子蔵 (1856), p.246
    夷人申様は、運上屋我等を虐使する事殊に甚し。
    春二月鯡漁初めてより引続夏は昆布とり、又鮭捕り、秋は鮭漁、其間は魚漁の支度、網繕ひ等まで紛々無限事に候。
    漸く十一月に至り私家に帰る事を得るなり。
    然らば我等年中家に居るは冬より春へ僅三月なり。
    此に骨折候とも、運上屋我等に報ゆるに木綿一反或ひは青銭六百文に過ぎず、昨年イシリの島へ行き役を取り、三四月勤め候とも、一銭の報も与へず、余り此如き事甚敷打続候へば、此節は自然漁事勤むるもの無之、大概に打置候
    されば漁事も年々少なくなり候なり。
    又当所は山深く地広く候へば、山猟も多分有之、熊杯も年々四五十は手も無き事なれども、我等危きを犯して空敷(むなしく)運上屋の徳分となるも詮無し
    故に山猟に出る者往々見当り候とも、遂ひ来る悪獣にも無之分は、其儘に打置申候。」

      高倉新一郎 (1959 ), p.168
    軽物などは集荷が思わしくなかったが、それは
    東西より相廻り候熊胆の義、何れも性合不宜に付、内実相(ただし)候処、土人共穴熊取獲候ども手当不足に付、押隠し、内々番人又は稼人等の内商のものへ売払、当所へは取(こさえ)の胆のみ相廻し候よし。」
       (堀・村垣意是書, 1857)
    といった事情からであった。


    引用文献
    • 窪田子蔵 (1856) :『協和私役』
      • 高倉新一郎編『日本庶民生活史料集成 第4巻』(探検・紀行・地誌. 北辺篇), 三一書房, 1969. pp.223-270.
    • 高倉新一郎 (1959 ) : 『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959