Up 文化を失う 作成: 2018-12-31
更新: 2018-12-31


    和人のアイヌ統治は,和人文化のアイヌ文化支配である。
    アイヌは,和人文化をアイヌ文化より上のものとして見るようになる。
    そしてこうなってしまったアイヌ文化は,終焉するのみである。

      高倉新一郎 (1959 ), pp.143-148
    オムシャは従来と同様非常な重要な意味を持っていたが、経済的な意味はただ一年中の総勘定というだけで、詰合役人との接触が重要視されるようになった。
    この日には、会所に幔幕を張り、座敷には武具を飾り、庭前に蓆をしき、
    役土人一同を招き、詰合が出座して掟書を読み聞かせ、
    役土人の任命・賞与、善行者の表彰、貧窮者の賑恤(しんじゅつ)等を行い、
    盃を汲み交し、(但し、支配人が詰合に代って行う。) 後、集まった蝦夷人すべてに酒や飯を振舞うのであった。
    彼我の関係は全く治者、被治者の関係に変っていた。
    蝦夷地を直轄すると、直轄地として法制をしかねばならぬ。
    しかし、他の直轄地同様のものを適用するわけには行かないので、林大學頭の案によって、漢高租が関中の父老に約した法三章の故知に習って次の三章を設けた。
      一、邪宗門にしたがふもの、外国人にしたがふもの、其罪おもかるべし。
      一、人を殺したるものは死罪たるべし。
      一、人を疵付又は盗するものは其程に応じ咎あるべし。
    すなわち従来、蝦夷が和人を害した場合は別であるが、蝦夷人同志の事は蝦夷の慣習に任せて置いて精々和解・調停に立つ位であった。
    けれどもこれによって、蝦夷人同志の間に起った犯罪も官吏が裁くことになったのである。
    蝦夷はこうした場合、チャランケ (談判) によりツグナイ (償) 又はウカル (互に根棒で打ち合う) で事を決していたが、幕府はこれを悪習であるとして禁止する方針に出、争いのある時は会所に訴え出て裁きを受けるようにした。
    オムシャで申し聞かされた掟書はこれらの法度を堅く守ること、徒党を禁じ、訴え出た者は同類といえども罪を許し、褒美を与えること、その他色々と心得べきことを申し聞かせたのである。
     ‥‥
    幕吏が最も力をそそいだのは蝦夷の同化であった。
    長い間の接触によって和人の影響は次第に蝦夷に及び、松前の蝦夷はほとんど姿を消し、松前に近い地方、例えば六箇場所の蝦夷などは、永住の和人に囲まれて日本語を解し、立居なども和人の真似をするようになっていたが、大部分の蝦夷は従来の風習を守り漁猟生活を送っていた。
    松前藩はこれを改めようとはせず、依然として通詞を介して折衝をし、蓑・笠・草鞋(わらじ)を用いるを禁じ、農耕に従事することを禁じられていたといわれていた。
    蝦夷を統治するためには和人と蝦夷の別を明らかにしておいた方が摩擦を防げたし、漁猟のままにとどめて置けば、米・酒・煙草などで貴重な漁猟生産物を交換する方式を続けることが出来た。
    しかし、国境の争いになると、何時までも異民族として放っておくことが出来ない。
    幕府は直轄に当って、蝦夷の同化方針をとり、 耳環・入墨・メツカキキ (不幸のある際刀の峯で打ち合い、不幸を招いた憑神を追い出す儀式)・熊祭などの異風を禁止し、 名を日本風に改め、 男は月代(さかやき)や鬚を剃り、日本風の(まげ)を結ぴ、 女も日本髷をゆい、 衣食住を日本風に改めることを奨励した。
    国境に近い擇捉島などは最もこの点に留意され、和人との混血すら奨励したらしく、津軽藩士山崎半蔵の日誌によれば、
     「 初年ヱトロフ島長住者の心得有る番人共へは、(ひそか)に信州公 (蝦夷地取締御用掛筆頭松平信濃守忠明) へ申込、夷女を夫々へ女房に遣候所、当年 (文化元 [1804] 年) 行見候へば、昨年迄子八人設候由。
    内三人不幸、五人は健成(すこやかなる)子供等(ばかり)に候と云」
    と報告され、番人の女房になったものは皆丸髷などを結って日本婦人と少しも変らない服装で会所の針仕事などを手伝っていた。
    改俗したものは新シャモと呼び、役蝦夷に取り立てたり、会所で使役したり、オムシャの時に特別待遇をした。
    改俗は最初かなり積極的に行われ、強制さえ加えたが、かえって蝦夷の反感を買うおそれがあったので、後には消極的になったようである。
    しかし、松前に近い所では急激にその効果が現れたらしく、落部・野田追辺では文化五 [1808] 年の日記に
      「このほとりの男女、わが国ぶりをまねび、俄にかたち改めしも多かり」
    と伝えてい、翌年の幕吏の日記にも、各場所に新シャモの名前が挙げられている。
    一般に蝦夷といわれるのを嫌ったので、自称であるアイノと呼ぶようにもなった。
    この頃を境として蝦夷の風習は急激に崩れて行った。
    不便なところ、食料の不足な所の蝦夷は昔から粟・稗を主とし農業を営んでいたが、それは漁猟の片手間に極めて粗放な形で行われていたに過ぎなかった。
    しかし、幕府は蝦夷地にも耕作を奨励し、会所等も蔬菜(そさい)畑を持つようになったので、耕作面積も、作物の種類も増す傾向があった。
    馬鈴薯など、寛政年間松前藩が救荒用に信濃国から入れたものだが、間もなく蝦夷地にも作られていた。
    こうして、直轄以来、東蝦夷地は急激に開け、設備もよくなり、産物も飛躍的に増加した。


    引用文献
    • 高倉新一郎 (1959 ) : 『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959