Up 場所の発達 作成: 2018-12-30
更新: 2018-12-30


      高倉新一郎 (1959), pp.74,75
    [運上屋は] 最初は縄綴船一艘の荷物と乗組員、精々二〜三百石の荷物と十四〜五人の人をいれるに過ぎない建物であったが、
    荷物がふえ、ことに漁業を直営するようになると、
    運上屋は番人・稼方を寝泊させ、雇蝦夷を集合させるに充分な構えとなり、
    漁具や漁獲物・米等を入れる倉庫が設けられ、
    常雇の蝦夷の居家を控え、
    魚見櫓や小さな社などをもった
    小部落が発達して行った。
    ここを中心として、漁獲物のある所には、番屋とか漁小屋とか呼ぶ建物が出来、その魚期には番人が蝦夷を引率して寝泊して漁業に従事し、終ると引上げた。
    番屋は運上屋の出張所で、漁業の豊富な、重要な番屋になると、運上屋に劣らない施設を持っていた。
    こうして働き場が出来ると、蝦夷は従来の山城を中心として作っていた独自の村落をすてて海岸の便利な場所に集まって来た。
    蝦夷地に点在する要地に建てられた交易所を中心に形作られた和人の勢力範囲は、海岸沿いに数を増して線になって行き、やがて蝦夷地全体を取巻いて行く態勢を示した。
    こうして場所の境界が確定され、請負人はその範囲内の交易権だけではなく、産業権、蝦夷の使役権等をも掌握し、後にはその独占的支配権を委任されるに至るまでの素地を築きつつあった。


    引用文献
    • 高倉新一郎 (1959) :『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959