Up 役土人 作成: 2018-12-15
更新: 2018-12-31


      高倉新一郎 (1959 ), pp.144,145
    場所が整備されると、各部落に乙名を置き、場所に従来の乙名・小使の外これを総括する総乙名・脇乙名・総小使等を置いたが、彼等はただ会所に詰めて、会所の命を同族に伝え、それに奉仕させ、もしくは役人巡回の節、送迎案内に当る役目になってしまった。
    役土人にはオムシャの時役料を支給され、五節句や詰合出立の節等酒を振舞われたが、こうした際、元役土人だった者などは矢張特別の待遇を受けた。
    これを土産取(みやげとり)と呼んだ。
    役土人の任命は全く会所の選択によった。

      吉田常吉 (1962), pp.15,16
    蝦夷の部落には各酋長があって部落民を統率していたが、
    松前氏の統治時代に、蝦夷に対しては従来の貢納・交易関係を存続し、彼ら自身の支配関係をそのまま利用して、酋長を村役人的なものに任命した。
    すなわち酋長を乙名と呼び、その下に小使などを置いて輔佐させた。
    一場所に数部落ある場合には、総乙名・総小使・脇乙名を置いて全部を統轄させた。
    小使は、和人の下知に従って蝦夷を奉仕のために呼び集め、所定の労働に従事させる役で、副酋長というよりは全くの場所役人の下役のごときもので、場所役人によって任命された役であった。
    寛政四年(1792) の『夷諺俗語』に「小使とは組頑といふ心にて、夷の内働者のする事なり」と見えている。
    乙名・小使はヲムシヤ (蝦夷地に赴いている和人が、一年に一回、関係のある範囲の蝦夷全員を招き、酒食を与え、賜物する儀式) の節に特別の待遇を受け、米・酒・煙草などの土産物を貰った。
    幕府が蝦夷地全土を直轄するや、安政三年(1856) この名称を改めて、総乙名を庄屋、総小使を総年寄、脇乙名を総名主、乙名を名主、小使を年寄と称した。


    引用文献
    • 高倉新一郎 (1959 ) : 『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959
    • 吉田常吉 (1962) :
        吉田常吉[編], 松浦武四郎『新版 蝦夷日誌(上), 時事通信社, 1962