Up 寛文九年蝦夷乱の<系遷移>的意義 作成: 2018-12-30
更新: 2018-12-30


      高倉新一郎 (1959), pp.64,65
    こうした交易経済の蝦夷地滲透があって、始めて松前の威嚇が功を実し、和議とはいえ蝦夷の全面的降伏となり、前述のように、和人のいう通りの条件で、産物の取引を指定の者とのみ行い、かつ和人の蝦夷地交通に協力し、駅傳の役務に従うべきことすら約束したのであった。
    その上ツグナイとして差出した宝物には武器が多く、一種の刀狩で、その後与えられる刃物は鋳物もしくは鯖刺のような小さな鈍刀にすぎず、全く抵抗を失ってしまった。
    「夷之儀は何方へ住候共可為夷次第事」の約束は廃棄されて、
     「 余所の国の荷物買取申間敷候。
    我国にて調申荷物も脇の国へ持参仕商売致間敷候」
    と約束させられ、定められた場所、定められた人、すなわち場所持並びに請負人以外の者と交易することは許されず、その比率も全くそれらのいうままに、従わねばならなくなった。


    引用文献
    • 高倉新一郎 (1959) :『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959