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高倉新一郎 (1959), pp.63,64
今、寛文九年蝦夷乱当時の各地の蝦夷の動きを見ても、その時叛乱を起したのはほぼ長万部・寿都を結ぶ線から太平洋岸は白糠・十勝、日本海岸は増毛に至る地方であり、それより近くの蝦夷も遠くの蝦夷もこれに加わらなかった。
近くの蝦夷は全く叛抗の力を失っていたし、遠くの蝦夷は叛乱せねばならない程松前の圧迫を感じてはいなかったのである。
しかしいずれも松前との交易関係から離れることが出来ない状態にあった。
叛乱した蝦夷は松前から交易が断たれると、「渇命に及ぶ」と狼狽して、償いを出して降伏し、
以遠の蝦夷も、
宗谷・利尻等の蝦夷は、もし松前との和議が破れ、「商船も不レ参候得ば我々共迷惑仕候事に候故、」うまく行くようわざわぎ忍路辺まで出て来ているし、
釧路以遠の蝦夷も大挙白老までやって来て、
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当年 (寛文十年) 御舟不レ被レ下候而迷惑仕候間、来年は御船被レ下度、去年も拙者共に御忠節申上候。
いたづら仕候狄共御気遣に被二思召一候はば、此方ゟ可二申渡一候。
其上にて合点不レ仕候ば私共思案次第に可レ仕候。
とかく御舟不レ被レ下候而は、咎なき狄共迄迷惑仕候。
来年は御船被二仰付一被レ下度候。」
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と訴えている。
石狩川上の酋長ハウカセが、松前勢が商船を派遣しないぞとおどかしたのに対し、
「 |
松前殿は松前殿、我等は石狩の大将に候へば、松前殿に構可レ申様も無レ之候。
又は松前殿も比方へ構申儀も成間敷候。
商船此方へ御越可レ被レ成とも御越被レ成問敷共 別而構無二御座一候。
兼而昔より蝦夷は米酒不レ被レ下、魚鹿斗被レ下、鹿之皮を身に着したすかり申ものに御座候。
商船御越被レ成候儀も御無用」(註)
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と豪語したのは、その場の売言葉、買言葉であったろうが、又その地が産物に恵まれ、位置上松前との交易を余り必要としない地方でもあったからでもあった。
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註 : |
『津軽一統志』「巻第十」(1731)
「 |
松前殿は、松前の殿、我らは石狩の大将に候得は、松前殿に講可レ申様も無レ之候。
又は、松前殿も此方え構申義も成間敷候。
商船此方え御越可レ被レ成間敷にも別て構無二御座一候。
惣て昔より蝦夷は米 酒不レ被レ下候。魚、鹿計被レ下、鹿の川を身に着、たすかり申ものに御座候。
商船御越被レ成候義も御無用の由申、通路の者返し申候由。
其上商船御越被レ成候はゝ、一人も通し申間銿候由と、物語仕候事。」
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引用文献
- 津軽藩 (1731) :『津軽一統志』「巻第十」, 1731
- 北海道(編)『新北海道史 第7巻 史料1』, 北海道, 1969. pp.83-200.
- 高倉新一郎 (1959) :『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959
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