Up アイヌの弱み──和人依存 作成: 2018-12-30
更新: 2018-12-30


      高倉新一郎 (1959), pp.63,64
    今、寛文九年蝦夷乱当時の各地の蝦夷の動きを見ても、その時叛乱を起したのはほぼ長万部(オシャマンベ)寿都(スッツ)を結ぶ線から太平洋岸は白糠(シラヌカ)・十勝、日本海岸は増毛に至る地方であり、それより近くの蝦夷も遠くの蝦夷もこれに加わらなかった。
    近くの蝦夷は全く叛抗の力を失っていたし、遠くの蝦夷は叛乱せねばならない程松前の圧迫を感じてはいなかったのである。
    しかしいずれも松前との交易関係から離れることが出来ない状態にあった。
    叛乱した蝦夷は松前から交易が断たれると、「渇命に及ぶ」と狼狽して、償いを出して降伏し、
    以遠の蝦夷も、
    宗谷・利尻(リイシリ)等の蝦夷は、もし松前との和議が破れ、「商船も不参候得ば我々共迷惑仕候事に候故、」うまく行くようわざわぎ忍路(オショロ)辺まで出て来ているし、
    釧路以遠の蝦夷も大挙白老までやって来て、
     「 当年 (寛文十年) 御舟不下候而迷惑仕候間、来年は御船被下度、去年も拙者共に御忠節申上候。
    いたづら仕候狄共御気遣に被思召候はば、此方ゟ可申渡候。
    其上にて合点不仕候ば私共思案次第に可仕候。
    とかく御舟不下候而は、咎なき狄共迄迷惑仕候。
    来年は御船被仰付下度候。」
    と訴えている。
    石狩川上の酋長ハウカセが、松前勢が商船を派遣しないぞとおどかしたのに対し、
     「 松前殿は松前殿、我等は石狩の大将に候へば、松前殿に構可申様も無之候。
    又は松前殿も比方へ構申儀も成間敷候。
    商船此方へ御越可成とも御越被成問敷共 別而構無御座候。
    兼而昔より蝦夷は米酒不下、魚鹿斗被下、鹿之皮を身に着したすかり申ものに御座候。
    商船御越被成候儀も御無用」
    と豪語したのは、その場の売言葉、買言葉であったろうが、又その地が産物に恵まれ、位置上松前との交易を余り必要としない地方でもあったからでもあった。


    引用文献
    • 高倉新一郎 (1959) :『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959