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高倉新一郎 (1959), p.62
蝦夷地産物の販路が拡がり、加工が進むと、漁獲法・製造法も勢い変らざるを得なかった。
例えば鮭は、蝦夷はヤス又は銛で突いたり、ウライという止めを使ったり、鈎で引かけたり、簡単な網ですくったりしていたが、次第に引網が使われるようになった。
鰊は最初、海岸によせて来るのをタモ網などですくっていたが、後には松前にならって差網が用いられるようになり、さらに笊網とか、建網とかいった大規模なものが使われるようになった。
海鼠もヤスで突いてとっていたが、八尺網と呼ぶ網を海底に引きずってとる方法がとられ、
昆布なども、水中に入って鎌で刈っていたのを、種々な道具で多量に採取出来るようになった。
こうした関係は必然的に蝦夷と和人との関係を変えて行った。
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引用文献
- 高倉新一郎 (1959) :『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959
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