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高倉新一郎 (1959), pp.59-61
従来とれていたものも、より高い製品の形に変って行った。
例えば蝦夷地の名産鮭は、遠距離の地方は主として干鮭で出されていた。塩切すなわち秋味は、船に塩を積んで行って蝦夷が捕えた生鮭を買い、塩切にし、冬海の荒れない中に出発するので、晩くなると塩切にすることが出来ず、止むなく干鮭にレたのであった。
だから、交通が便利で確実になると、塩切にする範囲は次第に拡がって行き、商品として劣る干鮭は次第に減少して行くのであった。
例えば、寛政十年(1798) 一万二千石 (一石に付五十尾として六十万尾)、全道の三分の一を生産した石狩川の鮭は、
寛文 [1661-1673] 年間はほとんど通船なく、
元禄元年(1688) 水戸藩の船快風丸が行った時、松前の船は小さく沖乗りが出来ないため、神威岬・持田岬などで難船し、恙なく帰船したものがないといわれているのに、
船が丈夫になった上、
季節を外さないように予め付近の手官湾 (今の小樽港の内) に待機させ、鮭がとれ出すと直ちに塩切にして出帆するようにし、さらに塩を予め輸送して置き、鮭がとれ次第陸で塩切にしておいてそれを積取船で運び出し、残ったものは切囲と称して翌春一番船で積出す等の方法をとったため、
産額は一段と増加したのであった。
増毛・留萌・天塩・宗谷などの鮭もこうして次第に塩切にされて行った。
東蝦夷地の西別川の鮭は、宝暦 [1751-1764] 頃から請負った飛騨屋久兵衛によって開かれたものであるが、直□ (舟+走) と称して、秋味船は松前の港に寄って改を受けることなく目的地に直行出来る制度が出来て、一層盛んになったのである。
秋味はさらに塩のうすい荒巻になった。
荒巻とは塩をして積むかわりに蓆に巻いて送った甘塩もので、珍味として歓迎された。
従来干鮭のみを出していたシコツなどは寛政以後荒巻を多く出すようになった。
干物から塩切になったものには鱒・鱈がある。
鱈は従来干鱈すなわち棒鱈として出されたが、天明頃から新鱈と称して塩鱈にして出すようになった。
南部沖の手法が進んで来たのであった。
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引用文献
- 高倉新一郎 (1959) :『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959
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